掴んだ服を握り締めたところで、ナルトは迫り上げた嘔吐感にそのまま丸
くなって蹲ってしまった。
本当に吐きたいわけではない。
だが、身動きさえできないほどのそれにカタカタと指先まで震える。
その身体を、そっと抱き上げてくれたのは、勿論サスケの腕だった。
動けないナルトは逆らうことも出来ず、サスケのするがままにされてしま
う。
「体力が回復するまで、動くなよ。ったく、しょうがねぇ奴だな」
その言葉にナルトの身体が小さく、震えた。
腕の中の丸まった背中を見つめ、一体ナルトが何を思っているのか、どう
して逃げようとするのか、サスケにも想像がついたしそれが間違っていない
ことも分かっていたが、けれどそんなナルトにどう言葉をかけていいのかが
分からない。
優しい言葉など得手ではないし、どう言えば正しく相手に伝わるのかも判
断がつかない。
「………大丈夫、だってばよ………どうせ、すぐに………」
ナルトの声は、震えていた。
必死に泣き出すのを堪えている、そんな声だった。
それに気がついたサスケは、ピクリ、と眉間を寄せてナルトを支えている
腕に力が篭る。
「俺は、大丈夫なんだってばよ………俺は、普通の人間じゃねーんだってば。
………化け物なんだって、分かってんだろう? おまえだってさ」
それに気付いているのかどうか、ナルトは一人独白を続けた。
「こんな傷、簡単に、治ってさ、普通じゃないってばよ」
どうせ逃げられないのなら自分から放り捨ててしまえばいいのだ、そうナ
ルトは自嘲するように言い放った。
「おまえだって、知ってるだろ? 十年ちょっと前に里で暴れた化け狐のこ
と。俺の中には、そいつがいるんだってば。俺に、封印されてるんだってば
よ」
だから、放り出してしまえ、おまえも。
俺のことなんて、他の里の連中と同じように捨てちまえ。
半ば自暴自棄になったナルトは、そこまで言うとサスケの腕から脱け出そ
うとして………出来なかった。
なんで? そう言ナルトが思った時。
「ウスラトンカチ」
変わらない口調だった。
思わず、震えてしまうほどにいつもと変わらないままのサスケの憎まれ口
に、その顔を振り返ってしまう。
そこに見たものは、やはりいつもと変わらないサスケの顔。
「ナルト」
だが、その次に紡がれた己の名前に、ナルトはびくりと震える。
(………な、んで………?)
眩暈がする。
今まで聞いた事もないような、低くて深い声が名前を呼んだ、それだけだ
った。
それなのに、心臓が跳ね上がる。
ゆっくり動いた手が、一瞬、何かを躊躇うように小さく握られ、そして開
いて、そっと、本当にそっとそんなナルトの髪に触れた。
瞬間。
それ、が、ナルトの中に降りてくる。
言葉ではない、なにか、が。
ゆっくりと波のように広がって、柔らかい光が一面を満たした。
「ナルト」
名前を呼ばれているだけなのに、どうしてこんなに切ないんだろう。
もう、知ってるくせに。
俺が、化け物憑きだってこと、俺が言わなくたってその目で見て知ってる
くせに。
なんでそんな声で、呼んでくれるんだってば。
「………るっ、くせに………」
なんでそんな風に見つめてくれるんだってばよ。
なんで? わかんねぇよ。
「………んで、だよ、俺は、俺は」
なんでなんだよ、サスケ。
俺が………
「ナルト?」
髪に触れていた手がするりと動いて、ナルトの背中をそっと包み抱き寄せ
れば。
声は、耳許くすぐるように、吐息さえ感じられて。
ぽたり、と気がついた時には溢れ出した涙が頬を伝って落ちていた。
「知ってる、くせに、おまえ………」
「ああ、知ってるよ。おまえがナルトだってことは」
「サスケ?」
涙でぐちゃぐちゃになった顔に、サスケはいつもと同じ顔で笑う。
その笑顔が、痛い。
「なに言ってんだってばよ? 化け物なんだぞ、怖くねぇのかよ。おまえ、
九尾のこと………知りもしないくせに『知ってる』なんて、言うな」
そんなサスケを、ナルトは腕で顔を隠しながら自分から引き離した。
「おまえは、なんにも知らないんだ。知らないから、そんな風に………」
俺の名前を呼べるんだ。
俺のこと、触ったり出来るんだ。
知らないから………。
「知ってる」
「知らねぇ!」
殆どヤケになって怒鳴ったナルトに対して、サスケは表情一つ変えない。
「………知ってる」
サスケの静かだが強い声に、ナルトは驚いて顔を上げた。
「………サスケ?」
「知ってる。おまえよりも」
十と余年前に。
木の葉の里を壊滅寸前にまで追い込んで、そして封じられた狐。
(俺は、知ってるんだよ、ナルト。この『目』で、見てるんだ)
うちはの歴史書は、真実を語る。
紛れもない真実を寸分違わずに、再生して見せる。
それは、うちはの、うちはだけに伝わる秘術。
写輪眼を持つ一族だけに許された、禁断の術。
この目に映ったものを、見たままに欠片の狂いもなく写しとって記録に残
す幻視伝授の術には、それを行なった者の私情は一切入り込まない。
写輪眼を持つ者だけが見ることの出来るものだから普通の人間が見ればた
だの真白い紙切れのそれは、能力ある者にはさながら記録映画の様にすべて
をダイレクトに脳髄の奥へと『そのまま』伝える。
(俺は、見たんだよ。その時のことを)
吐くかと、思った。
いや、実際吐いた。
胃の中のものを全部吐き出してもまだ足りず、最後には胃液まで吐いた。
そこは俺が知るどんな世界よりも最悪の場所で、俺の親が殺された時など
比較にもならない酷くて悲惨な、いっそ狂った方がマシだと思えるような血
と肉の腐臭が充満した空間だった。
倒れた、人間だったらしい物体の山、山、山。
見まわせは、一面の山と、真っ赤な海。
その中心で狂った様に咆哮する強大な化け物の姿。
「おまえの中に封じられてる狐が、何故暴れたのか、どうして封じられたの
か、それを俺は知ってる。俺の目は、それを見てるんだよ」
「そ、そんなわけないだろ、だっておまえはそん時まだ生まれてない………」
「そうだ。生まれてねぇ。でも見てる。この写輪眼でな」
ふっとサスケの両目が深紅に燃え上がった。
それを見た瞬間、ナルトの身体が反射的にびくりと竦む。
「俺の目には、そう言う力もあるんだよ。過去の歴史を見ることが出来るん
だ」
「じゃ、じゃあ」
「ああ。おまえの中に封じられた狐のその姿だって、知ってんだよ」
「い、いつから」
「もう随分前だ。写輪眼が使えるようになってすぐに………そうだな、中忍
になってすぐだったかな」
ナルトはもう声が出なかった。
知られているとは思ってもいなかった。
それも、そんに前から知られていたなどと、気がつきもしなかった。
つまりそれは、気付かぬほどにサスケの態度が変わらなかったと言うこと
を意味する。
「どうして」
「何が?」
「だって、おまえ、俺のこと」
「関係ねぇよ、おまえの中に何が封じられてるとしても、おまえがうずまき
ナルトだってことに変わりはないんだ。おまえがどう思ってるかは知らない
がな、俺には関係ねぇんだよ。おまえはおまえだ。俺にとってはドベでウス
ラトンカチですぐ馬鹿ばっかりやる、昔っから全然変わらねぇ『ナルト』で
しかないんだからな」
ナルトは抱き締められたまま、身動きができない。
サスケの言っている言葉が、ぐるぐると回るだけで思考が追いつかないの
だ。
「だって………おまえ」
「うだうだ言ってんじゃねぇよ、ウスラトンカチ。凍傷作りたくなけりゃ、
おとなしくしてろ」
指先をぎゅっと握り締められて、ナルトはズキリと胸が痛んだ。
「サスケ、俺、俺は」
「いいから、少しは休め」
抱き締める腕に力を少しだけ足して。
安心させるように。
「下らないことは考えんじゃねーよ。いいか、おまえが何で、何をその身体
に抱えてても、俺は、おまえがいいんだ。その荷物抱え、てそれでも真っ直
ぐに前見て歩いてる『うずまきナルト』のおまえがいいんだから、忘れんな」
「サス………」
「ほら、休め。目が覚める頃には毒も抜けて体力も戻るだろう。夜明け前に
は大名の屋敷に戻るからな」
ナルトが何かを言う前に、サスケはそう言って楽なように態勢を直してや
った。
すると、位置が変わってナルトの視界にやはり変わらない漆黒の瞳が映る。
その言葉には一つも嘘がないと、雄弁に語っている、その瞳。
止まりかけていた涙が、またせり上がってくるのを感じて、ナルトは慌て
てサスケの身体に顔を押し付けるようにしてそれを隠した。
(………サスケ………)
深い安堵感と与えられるぬくもりに、ナルトは吸い込まれるように眠りに
誘われる。
さっきまで心を支配していた冷たく悲しい予感に彩られた気持ちは、もう
どこにもない。
サスケの言葉は嘘ではない。
いつだって本当のことを語るその声がナルトに伝えてくれた言葉は、すべ
てが真実だった。
自分がいいのだと、そう言ってくれた。
なにもかも知っていて。
自分の中に封じられた化け狐が過去に里に齎した惨劇の、その全てを知っ
ていて。
それでも。
(俺が………いいって………)
眠りに落ちる意識の端で、ナルトは自分の指を包むサスケの手を握り締め
ていた。
言葉にして伝えられない想いをすべてそこに込めて、握り締めていた。
そんなナルトの心がまるで分かったかのように、サスケの手もナルトのそ
れをそっと握り返したことを、果たしてナルトは気付いていたのかどうか。
洞窟の向こうではようやく風も雪も弱まり始め、あと数時間もすれば完全
に雪は上がりそうであった。
雪雲が晴れれば、月は見えるだろうか。
眠るナルトの身体を抱き寄せて、燃える炎を見つめながらサスケはふと思
う。
次にこいつが目を覚ました時、そしてこいつはどんな顔をするのだろうか、
と。
「信じろよ、ナルト。俺は………」
呟いて、かすかに身体を前に傾けた。
炎の暖かさが二人の肌をやんわりと暖めて、洞窟の岩壁にその壁を映す。
それから静かに時は流れ、いつか雪の音も消えて。
この後、里に戻ったナルトは、長く暮らしたアパートを後にしてサスケの
家に居を移すことになる。
二人がそうして暮らすようになったことに、里の者の反応はそれぞれであ
ったけれど。
大きく何かが動たこと、それだけは間違いのないことであった。
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【BGM】CANOPY OF THE HEAVENS (C)FETZA PAViLiON
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