もしかしたら、これは一種の才能なのかしら。 箒を右手にバケツを左手に、袖はきっちり肘上まで捲り上げスカートの裾は邪魔にならないよう に止めて、そしてきりりと気持ちを引き締める三角巾で完全戦闘態勢となったソフィーは、思わず そう呟きそうになった。 一週間。 たった一週間しか過ぎ去っていないのに。 「どうしたら、ここまで散らかせるの、ハウルは!」 声に出してそう言っても、勿論現在城に不在の主は応えをくれるわけもなく、当然ながら部屋の 中に溢れるものたちだって、応えてはくれない。 「汚れてるわけじゃ、ないって言えばそうなんだけど………」 それはせめてもの救いかしら、と呟いたソフィーの言葉には、なんとか自分を鼓舞しようとする 響きが感じられた。 そして、改めて室内を見回した後、ソフィーはゆっくりと中に足を踏み入れてベッドの脇に転が っている人形を手に取る。 「ふふ、可愛い。ハウルったらいつから持ってるのかしらこれ」 初めて訪れた彼の部屋は、まるでおもちゃ箱だった。 天井から下がった不思議な光と音を出すモビールや、ゆっくりと回転する何に使うのかどのよう な用途があるのかさっぱり分からない丸い飾りの付いたリング。 まったく読めない魔法文字の書かれた布や紙。 宝石の如くに部屋中の壁を埋め尽くしていた飾りや、壁に設えられた瞼を閉じたり開いたりする 大きな目といった、普通はあまり見かけないような代物と、そして子供が持つようなどんな生き物 を模したのか今ひとつ判断の難しいぬいぐるみとが渾然とした部屋に、どれだけソフィーは驚いた ことか。 その時はドロドロに溶けた状態からどうにか元に戻り、ベッドで休んでいたハウルのことの方が 気になったので、驚きはしたがそれ以上のことは何も感じることなどなかったけれど。 思い返してみるに、あれはやはり、衝撃だった。 「魔女除け、って言ってたけど、あれだけ集めるのって大変だったんじゃないかしら」 自分で作ったのか、あるいは何処からか手に入れてきたのか。 どちらにしても、室内の殆どを埋め尽くしてしまうだけの数となれば早々簡単には集まらないは ずだ。 「本当に、荒地の魔女が怖かったのね、きっと」 自分は臆病で怖がりなんだ、とそう告白したときのハウルの姿を思い出して、こっそりソフィー は笑ってしまう。 出会ったときは颯爽としていて自分よりもずっと大人で、女性の扱いにも実に慣れた紳士のよう に思われたのに。 蓋を開けて見ればそれは全部、そうあるようにと作り上げた外側だけの彼、だった。 髪を輝く黄金に染めて、派手な服に身を包んで。 それは全部、自分を外から守る為の鎧だったのだろう。 鮮やかに笑って見せて、荒地の魔女の追っ手から自分と一緒に逃げてみせたけれど。 「あの時は、怖くなかったのかしら」 このベッドの上で怖くて怖くてしょうがない、と言ったあの姿を思えば、よくぞあんな風に平然 として自分を絡んできた兵士たちから救い出すなんて余裕があったわよね、と思い返してソフィー は思った、 「そう言えば、探したよ、なんて言ってたけれど………」 前にカルシファーが言っていた。 あの時、あの場所にハウルが現われたのはけして偶然なんかではなくて、最初から本当にソフィ ーを探しに彼はあの五月祭で沸きあがっていた町にやって来たのだと。 つまり、あの言葉は、本当に『探したよ』と言うことだったのだろう。 怖くて怖くてしょうがないとあんなに怯えていた荒地の魔女の手を掻い潜ってまで、自分に会い に来てくれたのかと思うと、やっぱり嬉しい。 「でも、もし九十のおばあちゃんにされていなかったら、私はこうやってハウルのお城の掃除婦に なんてなってなかったわよね」 一度きりの逢瀬で、その後は想い出の一つになってしまっていたかもしれない。 「そうしたら、ハウルは私のことなんていつか忘れちゃったのかも」 「僕がソフィーを忘れる? そんなことありえないよ!」 「きゃ!」 いきなり背後から声がかかって、ソフィーは文字通り飛び上がった。 彼女は窓の方に向かってベッドに腰掛けていたので、扉が開かれた事にもそしてこの部屋の主が いつのまにやら自分の背後に立っていた事も、またく気づいていなかったので、その驚きようは笑 いを誘う。 「いったいどうしたらそんな事を思いつくのかなあ」 ハウルの顔は笑ってはいたが、その蒼い瞳は真剣な色を帯びていた。 「僕がどれだけ君のことを待っていたと思ってるのソフィー。忘れるならとっくの昔に忘れていた よ」 「ハウル………じゃあ、もし私が呪いでおばあちゃんにされたりする事なんてなくて、あのまま帽 子屋でずっと働いていたら、あなたどうするつもりだったの?」 「もしもおばあちゃんになってなくても、君は絶対僕に会いに来てくれたよ。あの日からずっと探 していたあの時の君の気配が、五月祭の日が近づくにつれて強くなってきて、待ちきれなくて会い に行っちゃったけどね」 「でも、もしも」 「もしも、なんて例えは意味ないよ。だって、君は来てくれた。約束通りに」 「ううん、私は約束を守れなかったわ。ハウルはずっと待っていてくれたのに、私は、もしかした ら手遅れになっていたかもしれないのだもの」 「あれは、あれで良かったんだよソフィー。君は遅くなんてなかったんだ。あの流れ星の夜に君が 僕に残してくれた約束は、ちゃんと守られたんだからね」 「ハウル」 にこりと鮮やかに優しい笑みを見せたハウルに、ソフィーは瞳の奥に熱が灯るのを感じながらも、 彼と同じように微笑んでみせた。 「ふふ」 「何がおかしいのソフィー」 「ううん、なんでもないわ。ただね」 優しく触れてきたハウルの唇がゆっくりと離れた途端、小さく笑ったソフィーにハウルが小首を 傾げる。 それを見て、ソフィーはさらに笑みを深めた。 「ハウル、荒地の魔女がとても怖かったんでしょう? この部屋一杯に魔女除けで埋めつくしちゃ くくらいに」 「うん、怖かったよ。何しろとんでもない魔力の持ち主だった上に、僕の心臓が欲しいなんて言い だすし、それに悪魔と契約したことであの人の力はややこしくこんがらがってたしね」 こんがらがった魔力。 確かにそうだ。 お陰でソフィーにかけられた呪いも妙な形で発動してしまい、ソフィーに自覚はなかったにせよ、 年寄りになったり若返ったりと忙しなく繰り返していたのだから。 「まあでも、今はただのおばあちゃん………と言ってしまうにはちょっと癖があるかなあ」 「そうね。でも優しいいいおばあちゃんだわ。マルクルにも私やハウルの知らないような事を色々 教えてくれるし、私の相談にも乗ってくれるし」 ソフィーの言葉に、ハウルは笑った。 「僕は時々お小言貰うけどね」 「ハウルは少しくらいお説教された方がいいのよ。本当に生活の基本がなってないんだもの」 「酷いなあソフィー」 「だって本当のことでしょう? どうしたらたった一週間でここまで部屋の中をぐちゃぐちゃに出 来るのか教えて欲しいくらいよ」 呆れた顔でぐるりと部屋を見回し、最後に自分の隣に腰掛けて同じように部屋を一瞥しているハ ウルにソフィーは目を向けた。 すると、ハウルの顔には困ったような笑みがある。 「別にぐちゃぐちゃじゃあないよ。全部使うときに取りやすいように置いてあるだけで………」 「使うときに取り出して、終わったら元に戻せばそれで済むことでしょう?」 「でも、手の届く範囲にないと面倒だし」 「ハウルがそんなだから、私が来る前のお城の中は、あんなだったのね」 蜘蛛の巣が良く似合いのオブジェになってしまうような惨状は、ある意味で壮観ではあったけれ ど。 「マルクルはすっかり整理整頓が出来るようになったのに、大人のハウルがこれでどうするの」 ふう、と小さく息を吐いたソフィーの手に握られた箒と、足元に置かれたバケツ。 その存在にやっと気づいたハウルは、彼女が何のために自分の部屋を訪れたのかを遅ればせなが ら気づいた。 むしろ、遅過ぎたと言うべきだろうか。 その視線に気づいて、ソフィーは少し困り顔をしたハウルに苦笑めいた笑みを向けた。 「本当はね、今日こそこの部屋を徹底的に掃除するつもりだったの」 「徹底的って………」 ハウルの顔に、今度ははっきりと困惑が彩られる。 正直すぎる反応にクスクスと笑いながら、ソフィーはベッドから立ち上がった。 「でも、止めることにしたわ。ここには魔法の道具もハウルの大事な思い出の物もごちゃごちゃで 私には区別がつかないんですもの。だから整理整頓はハウルにしてもらうわ」 「えぇ?!」 「捨てろとは言わないわ。私には分からなくてもハウルには大事な物なんでしょう? それに物を 大切にすることはいい事だと思うもの」 「ソフィー」 「でも!」 ぴしゃり、とソフィーはハウルにずいっと右手の人差し指を向けて言い継いだ。 「物持ちがいいのと、物が整理できないのは話が別よ! きちんと整理すればずっとこの部屋だっ てすっきりするしもっとスペースも広がるわ。だから、自分で分かるように使い易いように、整理 してね?」 ソフィーの言葉に、ハウルはううーん、と小さく唸った。 「ちゃんとやってね? きちんと出来なかったら今日のティータイムにハウルには何も出ませんか らね」 「そりゃないよ。僕がソフィーのお菓子をどれだけ楽しみにしてるか知ってるだろう?」 「頑張ったらちゃんと用意してあげるわ。今日はあなたの大好きな黒スグリのパイよ」 「それって僕の」 「食べたいって言っていたでしょう?」 にっこり笑ってハウルに反論の余地も与えず、「頑張ってね」と最後に一言残すとソフィーは箒 とバケツを手に部屋を後にする。 そして、残されたハウルは。 「あーあ、やるしかないって事なのかな」 ソフィーの黒スグリのパイは、ハウルの好物の中でも、上位にランキングされているのだ。 それが食べられないなんて、とんでもない悲劇じゃないか。 などと呟きながら、ベッドの上に転がるぬいぐるみを指で軽く弾き、やれやれと言わんばかりに 立ち上がった。 「荒地の魔女は怖かったし、マダム・サリマンは今でも怖いけど」 床に乱雑に積み上げられている本を手に取り、ふう、と一つ息を吐いて、そしてさっきとは違う、 嬉しそうな色を浮かべて困ったなあ、と言わんばかりの表情になった。 「やっぱり、僕にはソフィーが一番心臓に悪いなあ」 大好きなソフィーの大好きな黒スグリのパイの為に、ここは一つ頑張りますか。 ハウルの部屋からがたがたと音がし始めるのを、階段の下で聞いたソフィーはくすっと笑い、バ ケツと箒を戸棚にしまう。 そしてキッチンの貯蔵庫から材料を取り出し、そして暖炉を覗き込んだ。 「ハウルの奴、掃除する気になったのか?」 音を聞きつけたらしいカルシファーが、のそっと薪の間から顔を出して言えば、どうにかね、と ソフィーは応じる。 「ハウルが三時のお茶にパイが食べれるかどうか、は頑張り次第よ」 「じゃあ頑張るに決まってるな。ハウルがソフィーの作ったものを食べ損ねるなんてことするわけ ないよ」 「そうならいいけど、どいうかしら………カルシファー、今日はオーブンをお願いね」 お菓子作りには、火加減が肝心。 カルシファーの協力は欠かせない。 「おいらにもちゃんと分けてくれるならね」 「勿論よ」 とっておきの黒スグリを手に取り、賑やかな二階を見上げ、そしてソフィーはにっこりと微笑ん だ。 「頑張ってるハウルの次に、大きなのをあげるわ」 「ならいいよ」 パチパチ爆ぜて、カルシファーはオーブンを暖めるためにふわふわと場所を移動する。 ハウルの部屋から聞えてくる物音に、二人揃って笑い合ってしまいながら、パイ作りが始まった のだった。 -end-
黒スグリ、とはいわゆる「カシス」のことです。アントシアニンが豊富で、 最近は健康補助食品としてもブルベリーより高い評価を得ているようですね。 黒スグリのパイ、と言うと私はすぐアガサ・クリスティーあるいはマザーグ ースを思い出します。そっちは黒ツグミなんですが。なので、タイトルは、 本編にまったく関係なく、マザーグースから。 黒スグリのパイは、黒スグリだけで作るのではなく、詰め物として他に林檎 やクルミなども入れます。流石にカシスだけではパイにならない(笑) 寧ろカシスのリキュールなどでムースケーキにする方が多いかも。でも、こ こはパイに拘りました。だってムーズじゃカルシファーが活躍する場がない ので! それにしても、最初と最後がかみ合ってない話になってしまった。反省。 以上、旧ハウルサイトに掲載したときのコメントでした。 2005年2月11日作成。 back