ふと、何かを感じて、ソフィーは繕い物をしていた手を止めて顔を上げた。 普段、そうした仕事をするときは作業部屋となっている自室で行なっているのだけれども、ハ ウルの帰りが遅いときなどには、カルシファーの鎮座する暖炉の前に座って何かしらをしながら 待っているのがいつもの習慣なのだ。 その習慣を、以前ソフィーはハウルに意見されたことがある。 「僕の帰りを待ってくれるのはとても嬉しいけれどね、ソフィー。でも君は朝がとても早いんだ から、先に寝ていてくれていいんだよ。勿論、僕を笑顔で迎えてくれるソフィーに家に帰って最 初に会えるのは嬉しいけど、それでソフィーが寝不足になってしまったら僕は悲しい」 そう言って本当に少し困ったような顔を見せたハウルに、けれどソフィーはにっこり笑ってそ っとその夜色の髪を指先で梳きながら応えた。 「朝が早いのはもう習慣だから心配しなくても大丈夫よ。それに、あなたが戻る前に眠ってしま ったら、どうしても気になってしまって、眠りが浅いの。あなたが無事に戻ってきたことを確か めてからの方が安心して眠れるのよ」 そう言ったら、ハウルは嬉しそうな、そして困ったような、なんとも微妙な面持ちになって自 分の髪を愛しそうに撫でるソフィーの身体をそっと抱き寄せ、コツン、と額を小さな肩に落とす と、溜息のような声で呟いた。 余りに小さくて、聞き逃しそうになったけれど。 「あんまり嬉しいこと言わないでよソフィー。僕は何も言えなくなるじゃないか」 どんな顔をしてそんなことを言ったのか。 生憎と顔は肩に押し付けられていて見ることは叶わなかったが、ソフィーはなんとなく想像が ついて自然と浮かぶ笑みを抑えられなかった。 自分はこっちが赤面して言葉を失うようなことをさらりと普通の顔で、てらいもなく言ってみ せるくせに。 どうしてこういうことには、てんで弱いのかしら。 毎日毎日、色んな知らないハウルを見つけるようで、老婆の姿になっていた頃とはまた違う意 味合いをもってソフィーは城での暮らしを楽しんでいる。 「戻って来たな」 揺らめいていた炎が体を起こすようにして顔をだし、唐突にそう言った。 ソフィーも、そうね、と頷く。 そして手にしていたマルクルの服を籠に戻し、カルシファーを振り返った。 「カルシファー、お願いしていい?」 「仕方ないなあ。オイラもう寝るとこなんだぜ?」 「ごめんね。あとで大きな薪をあげるから」 「それに、ソフィーの作ったブラウニーを付けてくれるならいいぜ」 「じゃあ、それを三つ」 「オーケイ。商談成立だな」 ブラウニーが欲しいのは本当だろうが、その会話はどちらかと言うとお互いに軽口を言い合っ て楽しんでいる、と言う雰囲気が強い。 カルシファーはソフィーの一番のお喋り相手なのだ。 「あっついお湯を送ってやるよ」 「ありがとう。でも、火傷しない程度にしてね?」 「ふん。たまにはそれくらいした方がいいさ。すぐにオイラをこき使うんだからな」 言葉ではそんな事を言いながら、カルシファーはよいしょ、と軽快な調子でお湯を風呂場へ送 っているようだ。 それを見てソフィーは微笑み、そしてゆっくりと踵を返して足を進めた。 あと少し。 そう、あと少しで開かれる扉の向こうから現れる人を。 「お帰りなさい、ハウル」 笑顔で迎えてあげるために。 「まったく………ソフィーは頑固なんだから………」 「言ったでしょ? 私は昔からそうなの」 ベッドの上で向き合う恰好になりソフィーに髪を拭いてもらいながら、待ってなくて良いって 言ったのに、とこぼれ落ちたハウルの呟きに、ソフィーはにこりとばかりに微笑んだ。 「あなたこそ、いつもは二時間たっぷり入ってるお風呂、一時間もしないで出てくるなんて珍し いわね?」 「だって、ソフィーは僕が風呂から出てくるまで起きて待ってるつもりだったんだろう?」 実際、部屋に戻ってみたら起きていたしね。 「これ以上君に夜更かしなんてさせられないよ」 だから、お風呂も超特急。 汚れを落として髪を洗って、ちょっと温まったらもう飛び出した。 「それに今は髪を染める呪いをしないから、前みたいに二時間も籠もったりしてないよ」 「そうね。でも、どちらかと言えばハウルはお風呂でゆっくりするタイプでしょう? 私のこと なら気にしないで入ってきてよかったのに」 仕事で疲れた身体を休めるのに、暖かいお風呂は最適だろう。 そう思ってソフィーは言ったのだが、ハウルはとんでもない、とばかりに首を横に振った。 「寝不足はお肌の大敵なんだよ! 僕のように日が高くなるまで寝ていられる性格ならいいけど、 ソフィーは何があっても太陽と一緒に起きちゃうからね」 のんびりなんて、とんでもない。 真剣に言うハウルがなんだかおかしくて、けれど笑っては悪いような気もして、ソフィーは喉 の奥で笑いを噛み殺すと、柔らかな手付きでハウルの艶のある闇色の髪を丁寧に拭いて水分を切 ってゆく。 黄金の輝きを放っていた髪も素敵だったが、やはりこちらの方がなんだかハウルにはしっくり 来るような気がするわ、と思う指の動きはとても優しい。 なんとなく、この姿をしているハウルの方がとても自分に正直になってくれるような気がする。 それはとても子供っぽい部分や相変わらずの癇癪や、純粋で真っ直ぐな心の姿を見せて、時に はソフィーを困らせたり途惑わせたりもするけれど。 全てをひっくるめて、ハウルと言う人なのであり、それがソフィーの好きになった相手なのだ。 「さあ、終わったわハウル。今日はなんだか疲れてるみたいだったわ。お仕事大変だったの? ゆっくり寝て………ハウル?」 十分に髪から水分を拭き取ったことを確かめて、塗れたタオルをテーブルの上に置いた洗面器 に入れたソフィーは、さあ寝ましょう、と言うつもりで声を掛けた。 が、返事は返らない。 返るはずもなかった。 「まあ、寝ちゃったの? ハウル」 ソフィーに髪を拭いて貰うのがよほど気持ちよかったのだろう。 ハウルはベッドの上に胡坐を掻いたまま、すっかり寝入ってしまっていた。 こくり、こくりと小さく頭が上下するのを見て、ソフィーは少し驚いた顔をした後で優しい面 持ちになると、そっと肩に手をやり、震動を与えないようにしてベッドに横させる。 自分よりも大きなハウルを横にさせるのは思いの外大変だった。 が、それでもなんとか実行し、最後にお日様でフカフカになった布団を掛けると、ソフィーも その隣にそっと滑り込む。 すると、途端にまるでそれを待っていたかのように、動いたハウルの手によってソフィーは抱 き寄せられてしまった。 狸寝入り? いいや、それはないだろう。 そっと覗き込んだハウルの目はしっかり瞼が閉じられていて、呼吸も眠っているときのそれだ。 つまりは、無意識の甘えん坊。 「………………ソフィー………」 「なあに? ハウル。あなたの夢の中にも私はいるのかしら?」 私の夢の中には毎日のようにあなたが現れるのよ。 ふふ、と笑みを口許に乗せて、ソフィーは眠るハウルの頬に唇を寄せると、自分を抱き締めて いるその身体にそっと手を置いて瞼を伏せた。 「おやすみなさい、ハウル。あなたも私に会いにきてね」 ベッドサイドの灯りを消して。 カーテンをすり抜けて部屋に届くは、満点の星影。 そして夢の汀でたゆたうように。 触れる互いのぬくもりが、明日への道しるべとなって。 あなたの眠りがどうか、穏やかで優しいものであるように、と祈りながらソフィーはハウルの 後を追いかけるようにして夜の旅に出る。 明日、朝陽の中で眠るあなたの顔を見れるかしら。 そんなことを、思いながら。 -end-
お互いに寝顔を見るのが好きそうな夫婦(笑) 2005年3月3日作成。 back