■遙かの空から
  
 それが、いつ訪れたものだったか。
 今さら考えてみても、思い出せない。
 ただ、気がついた時にはもうしっかりと当たり前の顔をして。
 それは其処にいた。
 まるで最初からずっといたかのように、とても自然に。
 胸の奥、焼きついた光。
 穏やかな永劫の時を映し出した、それは。



「秋山、来てるぞ、あの子」
 不意に声をかけられて、上半身を起こせば、そこにペコリと現場監督に挨拶をしている直の姿
があった。
 何を言われているのか大袈裟なほどの動きで、首を横に振っている。
 大方、俺とのことで何か揶揄われているんだろうな、と思いながら秋山が眺めていると、その
視線に気付いたのか直が秋山の方へと顔を向け、パアッと明るい笑顔を浮かべてパタパタと小走
りに駆け寄ってきた。
 もちろん、その前に監督への挨拶も忘れない。
 律儀な性格は行動の一つ一つに現れていた。
「こんにちわー、秋山さん!」
「走ると転ぶぞ」
「そんなことありませ………」
 言った傍から、直の爪先が何かに躓き、ぐらりと重心が傾いで倒れ込みそうになる。
「何が、そんなことないって?」
 その寸前で、秋山の腕によって抱きとめられたことで、なんとか顔と地面がスキンシップを交
わすことなく済み、思わずほっと息を吐いた。
 と同時に、あわわわ、と傾いていた身体を引き起こしてぺこりと秋山に頭を下げる。
「す、すみません、秋山さん!」
「いや、別にこれくらいなんでもないけど。もう少し注意して行動した方がいいよ。今、何にも
ないところで躓くっていう器用なことしたからね、君」
「う………気をつけます」
「そうしてくれ」
 溜息を一つ落としながら秋山は言ったが、彼女のそそっかしいところが改善される可能性は非
常に薄いよな、とも思っていた。 
 なにしろこんな会話を、多少内容に違いはあれども、何度も交わしているからだ。
 しかし、残念ながら一向に改善されている兆しは見られない。
  本当によくこれで今日まで無事に生きてこれたものだ、と改めて秋山は思ってしまう。
 しかし、当の本人はそんなことを思われているとは夢にも思っていないらしい。
「ええと、お昼まだですよね?」
 一応確認を取りながら、直は大きめの鞄の中から弁当箱を取り出してみせた。
「お昼の時間まで待ってますから、一緒に食べてもいいですか?」
「秋山ー、昼メシ、入っていいぞー」
「………だそうだ」
 まるで狙い澄ましたように(実際そうだったのだろうが)声がかかり、秋山は軽く肩を竦めて
て直のお願いに対する返事とすれば、ありがとうございます、と直はにこりと笑う。
 ここでも、秋山に声をかけた監督に対してお辞儀することは忘れない。
 こんな遣り取りは、何も今日だけのことではなかった。
(すっかり、馴染んでんだから、これってどうなんだよ)
 直は大学の講義の都合がつく日はほぼ毎日、お弁当を手にして秋山の元を訪れる。
 一つの現場が終われば次の現場へと、仕事の場所は転々と移動するにも関わらず、彼女のそれ
は続いていた。
 秋山は一度も自分の仕事の場所については教えていないから、誰かが直に教えているのであっ
て、それが誰かということも、あまりに分かり易すぎる。
 どうやら、直は秋山の彼女である、というレベルをすっ飛ばして、婚約者である、とか、実は
内縁の妻である、だの果てには結婚している、と半分冗談で半分本気で、監督以下同僚の連中が
言っていることを、無論のこと秋山は知っていた。
 直接言われたことがあるわけではないので、それは違うとこちらから否定するのもおかしな話
であろうし、逆にまた余計な推測を促すことにもなりかねない。
 そう判断して、放置しておいたのが不味かったのか。
「おまえさ、せっかく弁当を届けてくれるんだから、ちゃんと仕事場変わったら彼女に教えてや
れよ」
 などと言われるに至って秋山は非常に己の読みと行動の浅はかさを悔やんだが、こうなってし
まえば余計に今さら、それは違う、と言うことはできなくなっていた。
 それは違う、のそれがどこに掛るものであるかを一々説明するのも厄介であったし、なんだか
かんだと理由を上げてみたところで、直がこうやって手作りの弁当を持ってやってくるのは事実
なのだから、結局のところ、何を言っても現状に大きな変化があるとは思えず、端的に言えば、
秋山は一切合財を放棄して成り行きに任せてしまったのだ。
 合理性を求め、行動と思考が並列している彼にしては、なんとも珍しいことだったろう。
 ただし、神崎直という人物が関わった場合においてのみ、珍しくないどころか、ごくごく当た
り前のことになりつつあるのだけれども。
「おまえ、今日は大学の講義がある日じゃなかったのか?」
「それが休講になっちゃったんです」
「あ、そう」
 少し離れた場所の日陰に二人並んで腰掛けて、広げた弁当は相変わらず見事なものだった。
 直は父親が入院してからは一人暮らしの状態で、経済的なことを考えてか外食も出来るだけ控
えて自炊をしていたらしく、料理の腕はかなりのものがある。
 おまけに栄養面についても、父親のことがあったからか色々と気を遣っているようで、秋山に
してみれば彼女の届けてくれる弁当は、経済面からも健康面からも二重にありがたいものであっ
たのは事実だが、それがほぼ毎日のこととなると些か気も引けた。
 なので、それをさりげなく匂わせたこともあるのだけれども。
「自分の分も作るんですから、そんなの気にしないで下さい! それに一人分作るよりも二人分
作る方が楽なんですよ」
 軽く一蹴。
 ニコニコと笑顔でそう言われて、そのおかずどうですか? と続けられてはもう秋山には何も
言える言葉などなかった。
 以来、こうして二人並んで直の手作りのお弁当をつつく光景は殆どもう当たり前のものになっ
てしまっていて、秋山は自分がこの隣で嬉しそうに笑顔を浮かべている相手にはどうしたって勝
てないことを再認識するのだ。
「そうだ、秋山さん」
「なに?」
「もし週末に予定とかなかったら、なんですけど」
 弁当が半分ほど減った頃、他愛もない大学での出来事や日常の切れ端を話していた直が、不意
にそんなことを振って寄越した。
 妙に神妙な顔をしているので、何をやらかしたんだ、あるいはやらかすつもりなんだ、と少し
ばかり警戒しつつ、秋山は表面上は何一つ変わらぬ様子を保ち返事を返す。
「今のところ別に何もないけど、なに?」
「あの、ですね。ちょっとお願いが」
 直の口からお願い、という言葉が紡がれることは、存外に少ない。
 ゲームの最中は事情と状況が特殊であったから除くとして、こうした日常の中にあっては、寧
ろ珍しいことだった。
「父を、覚えてますか? あの療養所で一度会ってるんですけど」
「覚えてるよ、勿論。あの時はきちんと挨拶も出来なくて悪かったな」
 何故ここで彼女の父親の話が出てくるのか、秋山はやや首を傾げる。
 自分の弁当を無意識にやたらと突いている直は、それには気付かずに続けた。
「いえいえ、私も秋山さんに会えてちょっと舞い上がっちゃってて、お父さんにちゃんと紹介で
きなかったですから。で、それでですね、あの、父が」
 そう言えば、末期癌だと言っていたが、急に容態でも悪くなったのだろうか、と一瞬考えたも
のの、そうだとしたら直の様子はもっと違うはずだろう、と思い直す。
 だが、他にどんな理由があるだろう。
 と、思ったところに。
「父が、秋山さんに会いたいと言ってるんですけど、会ってもらえますか?」
「………………………………は?」
 直の言葉が耳を通り鼓膜を震わせ脳に到達するまでに、かなりの時間がかかってしまった。
 それくらいに予想外の台詞だった。 
 SとMについての疑問を投げかけられた時ほどに、対応に遅れた。
「この前、ちゃんと挨拶出来なかったのがお父さんも残念だったみたいで、もし秋山さんさえよ
かったら是非、会いに来てもらえないかって」
「………一つ聞くけど」
「はい」
「君は、お父さんに俺のことをなんて説明したわけ?」
「ええと、私がすごく困ってるときに力を貸して助けてくれた、優しい人ですって、言いました
けど。あと、私の一番信頼してて大事な人ですって………秋山さん? どうしたんですか?」
 突然弁当を抱えたまま前に突っ伏してしまった秋山に、直が吃驚して声を上げる。
 まさか自分が秋山にここまでのカウンターパンチを食らわせたのだとは、まったく思ってもい
ないその顔は、心配そうに気遣いの表情を浮かべていた。
「秋山さん?」
「それで、君のお父さんは、俺に会いたいって?」
「はい。ダメですか?」
 いやもう、駄目とかいいとか、そういう問題ではなく。
 それ以前の問題として、自分が落とした爆弾がどんな事態を周囲に巻き起こしたのか、全然分
かってないのはどうなんだ、とか。
 俺のことを君のお父さんがどう見てるのか、勿論全然、君は分かってないんだろうな、とか。
 言いたいことはそれこそ、山のようにあった。
 あったけれども。
「………いいけど」
 長い長い逡巡の果てに、秋山が口にしたのはそれだった。
「本当ですか!?」
「その前に、色々整理しておかないと不味いことが在りすぎる」
「整理するって、お部屋ですか? でも、父は療養所からは出れないから秋山さんのお部屋には
お邪魔できませんけど」
「そういう意味の整理じゃなくてさ………いいよ、とりあえず、俺の問題だから」
「はあ」
 不思議そうな直のきょとんとした表情をちらりと見て、秋山は一つだけ溜息を落とし、残って
いた弁当を一気に平らげる。
「ご馳走さん」
「お粗末さまでした」
 空の弁当箱を直に返して立ち上がった秋山が、一歩踏み出しかけたところで振り返ったので、
なんですか? と直は少し首を斜めにしてニコニコしながらその顔を見上げた。
「明日」
「はい」
「夕方、時間空いてる?」
「夕方ですか? ええと、講義は三限までなので、大丈夫です」
「そう、なら仕事終わったら君の家に行くから」
「うちにですか? 分かりました。待ってます。あ、晩御飯一緒に食べませんか?」
「………じゃあ、お言葉に甘えて」
「はい!」
 嬉しそうにますます笑顔を耀かせた直の頭の上にぽん、と一つ手を置いて、秋山はじゃあな、
と言い残し仕事に戻っていく。
 それを見送り軽くなった二つの弁当箱を鞄に押し込むと、直も立ち上がった。
「私、帰りますね。お仕事、気をつけて頑張って下さい」
「ああ。気をつけて帰れよ。転ぶなよな」
「そんなに私転んでなんかいませんよ!」
 頬を膨らませる直に、秋山はただ軽く手を振ってみせる。
 それだけで、膨れっ面は笑顔に早変わりをしてしまった。
 ふふ、と嬉しそうに笑みを浮かべて、直は足取りも軽く歩き出す。
 明日は秋山が家を訪ねてくれるのだから、今夜は部屋の大掃除をしておかなくちゃ。
 と、そう思ったところで、ふと思い返す。
「結局、秋山さんが整理しなくちゃいけないものって、何だったんだろう」
 部屋のことではないらしいのだが、直には他に何があるのかまったく思いつけない。
 なので。
「明日、秋山さんにちゃんと聞いてみようかな」
 でもとりあえず、今日は明日のための買い物と、大掃除と、それからそれから。
 そんな楽しげな背中を遠くに見て、秋山が深々と溜息を吐いていたことを、当然ながら彼女
は知る由もないだろう。 
(あいつ、当然、何も考えないで、言ったんだよな、父親に)
 さて、どの辺りから整理を始めようか。
 それは果てしなく終わりの見えない作業のようにも思われて、眩暈を感じなくもないのだけ
れども。
 それを嫌だとは思わない時点で、つまり結果は出ているということか。
(………しかたねぇよな)
 選んだのも選ばれたのも、お互い様ということで。
  

 気付いたときには、まるで最初からそうだったように。
 当たり前のように自然に、其処に息づいていた。 
 いつからか、そんなことはもう、今さらのことで。
 胸の奥、焼きついた光。
 穏やかな永劫の時を映し出した、それは。

 

 遙かの空から、巡り来る明日。





                                       -End-


10000hitを記念して、のSSのはずだったんですが、なんかこう、間違った気がします。
ドラマ終了後設定です。
あんまり秋山×直していませんよね。なんでしょうね、これは。
とりあえず、秋山氏には色々と整理整頓をしたうえで、直ちゃんお父さんと対決して
戴くことにしまして。
お持ち帰りは終了いたしました〜。感想、ありがとうございましたv