「こんにちはエリーさん!」 「おじゃまします、エリーお姉さん」 「こにちは、エリーおねーちゃん!」 三者三様の挨拶に、ニコリ、と普段の無表情な様子とはおよそ月と地球ほども掛け離 れた笑顔で、エリーは来訪者を迎え入れた。 「ようこそいらっしゃいませ、皆様。お待ちしておりました。さあどうぞ」 「はい、おじゃまします」 礼儀正しく直がお辞儀をすれば、その両サイドに立つ小さな頭が同じ様にペコリと下 げられる。 「お世話になります、エリーさん」 「なります、エリーおねーちゃん」 「こちらこそ」 こっそりと、おねーちゃんと言う年齢ではもうないだろう、というツッコミを心の中 で入れておきながらも、秋山家の主は至ってまったくいつもと変わらぬ表情を保ってい た。 彼のポーカーフェイスは、年々磨きがかかっている。 それが誰のおかげになるのかについては、一々問うと多方面に影響が出そうなので、 追求してはいけない。 「更衣室はあちらになります」 「ありがとうございます! じゃあ、行こうか、慧君、深悠ちゃん」 「はあい」 「はい」 エリーにペコリともう一度頭を下げると、直は二人の子供と連れ立ってスキップでも しそうな足取りでプールサイドのクラブハウスのような建物へと向かっていった。 それをにこやかに見送るエリーの背後に、背の高い影が立つ。 「秋山さまは、お着替えにならないのですか?」 さきほどの笑顔は何処へやら、いつものクールな面持ちに戻ったエリーがくるり、と 振り返った。 その見事な切り替えぶりは立派なもんだ、と思っていたのかどうか。 「あとで着替える。それより、聞いてもいいか」 とりあえずは優先するべきことを、優先した。 「私でお答えできることでしたら」 にこり、と艶やかな唇に笑みを乗せた相手に、食えない女だな、と改めて思いつつも、 つい、と顎で彼女の丁度背後にあたる場所を示した上で、言葉を継ぐ。 「このプールは、誰のものなんだ?」 聞くまでもないこととは分かっていても、確認する。 あくまでも、一応。 「もちろん、この屋敷の主である、父になりますが?」 予測どおりの返答。 それ即ちハセガワ氏、ということになるわけだが。 金持ちの家に利用されているかどうかの如何に関わらず、プールがステイタス宜しく 付属することは珍しいものではなく、むしろ当然のような顔をして存在しているものだ けれども。 普通、大抵、まあ大方の場合。 こうした屋敷にありがちなプールといえば、目的とするところが娯楽なのか、見栄な のか、どちらにせよ競泳用ではないのだから幅五十メートルなんてことはもちろんなく、 広さは二十五メートル程度であり、かつ、全体的な作りは立派だとしてもごくごく普通 の形を持っている、ものだと彼は認識していたしそれが常識のパターンだろう。 だがしかし。 今、目の前にあるもの、そしてエリーの背後に広がっているものは、そうした常識的 な何かをすぱっと切り捨てていた。 そう思わなくては、とりあえずやっていられなかったかもしれない。 「つまり、あの男がこれを作るように命じたと」 「その通りです」 「なら、おまえの父親は、流れるプールだとか、波のあるプールだとか、そういうものが 好きで、それで遊びたかったのか」 「色々と遊び心のある方なので」 「………日本語ってのは、便利なもんだな」 意味深長なその言葉に、エリーはただ微笑むだけだ。 「まあいい。流れようが波があろうが、それは遊び心で済ませてもいい。だが、あれは 遊び心じゃすまされないだろう」 それこそが、彼がこの場所に立ったときからどうしても気になって気になって、言わ ずにはおれなかったことで、ようやっとついに、口にした。 「いい歳したジジイが自分の屋敷に作ったプールに、どうしてウォータースライダーが ある?」 「父の趣味ですが、それが?」 さらりと、しかもきっぱりと。 言い返されて、すぐさま切り返せる言葉などあるだろうか。 あの男の趣味。 うっかりと脳裏に思い浮かべた顔と現状の有様とを同時に並び立たせることの難しさ を痛感させられ、思わず軽い眩暈を覚えてしまった。 一瞬、ほんの一瞬だったが。 あの男の腕の中に、今自分を完膚なきまでに叩きのめそうとしている女が深悠ほどの 幼い姿となって抱えられている上で、それはもう嬉しそうに楽しそうに声を上げて、ス ライダーを滑り降りてくる、という在り得ないものを想像してしまったがゆえに。 (やめろ、それ以上の想像は心臓に悪い。落ち着け、俺) ぎりぎりのハザード警報が鳴り響く中で、とりあえず冷静さを取り繕うために自分の 中に生まれてしまった世にも恐ろしい想像を綺麗に掃き清めることを選択した。 あのまま最終的場面にまで到達していたら、間違いなく自分の心臓は止まっていただ ろう、と妙な確信すら、彼にはあったのかもしれない。 「あ、深一さん、先に着替えてきちゃいましたよ」 そこに、二人の子供と一緒に可愛らしいピュアホワイトがベースのビキニに、腰に淡 いピンクのパレオを付けた直が現れた。 左胸のところにワンポイントで夏の花が配置されており、パレオにも揃いの花が描か れていてしっかり腰を覆っている。 「えへへ、どうですか? 深一さんにも一緒に選んで貰った水着なんですけど」 「うん、似合ってるよ」 「よかったー」 「よかったね、お母さん」 慧が嬉しそうに顔を綻ばせるのを見て、同じくらいニコニコと笑う。 元々顔立ちは似ているのだが、そうすると余計に似ていてさながらミニチュアだ。 性格の根っこの部分は父に良く似ている上に、父以上の苦労性なところがこの年齢 にしてすでに垣間見える秋山家の長男は、父と母が仲良くしている姿を見るのがこと の他幸せであるらしい。 彼の将来がそこに見え隠れするような気がしても、そこは突っ込んではいけないと ころだろうか。 「深悠は? 深悠は?」 そんな直と慧の前に飛び出して、ちょこんと首を傾げてみせた深悠が、三人に向か って問いかけた。 兄に比べると父親似で、将来はさぞや男を惹き付けるであろう美少女となることを すでに約束されている(そのために秋山家を襲うであろう嵐について、両親よりも、 兄の慧が一番心配しているのだが、まだ小学生のうちからそれはどうなんだろうか) 目元も涼やかな面立ちをしているものの、やはりまだ子供らしい丸くふくよかな頬や、 なによりそのおっとりとした仕種は母に良く似ていてこちらも直のミニチュアをもう 一体増やしたような感じになる。 「深悠もよく似合ってる、可愛いよ」 息子も娘もとにかく溺愛している深一が、家族以外の他にはけっして向けないこと が確約されている優しい顔を惜しげもなく披露しつつ、母と揃いの水着を身に着けた 娘の頭をそっと撫でてやれば、きゃふー、と嬉しげな声を上げて、深悠は兄の背後に 回るとその腰の辺りに抱きついてしまった。 父も母も大好きだけれども、深悠が一番くっついて回るのは兄の慧だ。 兄の苦労性とはまた違った意味で、妹の深悠も色々と無意識ながらも思うところが あるらしい。 お父さんもお母さんもお兄ちゃんも大好き。 お父さんもお母さんもお兄ちゃんも深悠のことを大好き。 だけど、お父さんとお母さんはすごく仲良し。 お父さんはお母さんのトクベツで、お母さんはお父さんのトクベツ。 だから、深悠はお兄ちゃんがトクベツ。 と言ったような、図式がまだ小学校にも上がっていない秋山家の長女の頭の中には しっかり存在しているのだ。 これには、慧の涙ぐましいほどの親思いな努力の結果だった。 そのことについて、父の深一は十二分に認識があり、母の直にはまったくない。 自分の息子ながら本当に良く出来た子だと、常々深一が思っていることを、慧がど れほど自覚しているかどうかは定かでないものの、この父子には通常の親子の間柄以 上の何かが存在するのは間違いないだろう。 ただし、将来深悠が大きくなってそれなりの年齢になった頃に、また別の問題が生 じるであろうことについては、今のところ考えが及んでいないようだ。 それはさておき。 「お母さん、プール入ってきていい?」 深悠に腕を引っ張られながら、慧がそう問いかけた、時だった。 まずは準備体操をしなさい、と父親が声をかけるそれよりも一手早く。 「水に入る前にはきちんと身体を動かしておかなくてはいかんぞ」 明らかに、この場にまったくそぐわない男が、これがドラマか何かだったのなら、 バーン、と言う効果音付きで(少なくとも、若干一名にはそれが聞こえていた)現れ、 腹式呼吸が見事ですね、と言わずにはおれないような朗々とした声で言い放った。 「あ、ハゼガワのおじいちゃん」 断っておくが、そのハセガワさんとは、血縁なんてこれっぱかりもないからな、と える秋山深一氏の声は、残念ながら心の中で呟かれたものであったため、必然的に誰 にも伝わらない。 「ハセガワさん、今日はお招き頂きまして、本当にありがとうございます。皆ですご く楽しみにしていたんです!」 皆、と言うのは語弊がある。 少なくとも俺は違うぞ、という声は以下同文。 「いやいや、直さん、お礼を言いたいのは私の方ですよ。誰にも使われないのではプ ールもあったところで意味がない。使って頂けて寧ろ感謝しています」 「そうですか? そう言ってもらえると嬉しいです」 ニコニコと笑う直と、ハセガワ氏。 ほのぼのとしていることに間違いはないが、その構図がすでに間違っているのだ、と は誰の声であったのか。 ああやはり。 直と慧と深悠の三段攻撃でお願いされたからと言って、ここに来ることを承諾するん じゃなかった、と思わず溜息を吐いてしまいそうになった深一の隣に、ひょいっと直が 並んだ。 「深一さん、あっちにパラソルがあるからそこに座りませんか? 炎天下に立ってるの はよくありませんよ?」 「おまえ、泳がないのか?」 気がつけば、なぜか準備体操をしているのは二人の子供とハセガワで(それがラジオ 体操であったことに懐かしさを覚えたことは口が裂けても言えない)、直は何時の間に やら自分の隣。 不思議に思って訊ねれば、にっこり笑顔で直が答えた。 「えへへ、せっかくですから、もうちょっとこの水着で、深一さんを悩殺してみようか な、と思いまして」 「の」 うさつ、と一音一音区切って繰り返して、さらに一呼吸。 「なんでそこで、息が出来ないくらい笑うんですか、深一さん!」 俯き加減になって前髪で顔は隠れていても、震える肩がすべてを物語る。 なんでもなにもないだろう。 思い切り頬を膨らませている妻をを視界の端に収めつつも。 どうにもならない笑いと、ひたすら戦う夫なのであった。 -つづく-
ええと、なんだか分からないが長くなってしまったので、とりあえずここまで。 続きます。はい、続きますとも。 ハセガワのおじいちゃんもエリーお姉さんもまだ活躍してませんし あの人も出てませんし(笑) 誰のことだかわかりますかねー? 記念リクで、秋山家の話をご希望になられた方がけっこうな数になり、 ようし、それでは、とリクを頂く前から暖めていたネタをいじくって、 それっとばかりに、書いてみました。もう夏が終わるのに………すみません………