■Sol lucet omnibus
自動ドアが微かな機械音を響かせて左右に開けば、その向こうから涼しい風が吹いてくる。
しかし、寒いと感じるようなものではなかった。
近年叫ばれるようになった温暖化対策、エコ活動の影響か冷房の温度設定を高めにしている店舗が
数を増やす中、どうやらこの店もその流れに従っているのだろうか。
自分がまだ大学生をやっていた頃は、こうした店は大概冷房を利かせ過ぎて寒かったものだが随分
と世間は変わったのだな、と秋山はぼんやり窓の外に視線を流しながら思う。
だから、彼にしては珍しいことに、自分に呼び掛けている声に反応するのが遅れた。
「………なに?」
「もー、聞いてなかったんですか? 飲み物どれにしますか?」
コーヒーでいい、と言い出す寸前にメニューを差し出され、殆ど反射的にそれを受け取る。
そして開いたところで、秋山の動きが止まった。
見知らぬ文字がずらずらと羅列されているそこには、およそ秋山の知識のどこにも引っ掛かるもの
が存在しなかったからだ。
いや、一つだけ、あった。
「ダージリン?」
その文字を見つけてから改めて見直せば、TeaListと、銘打ってあることにも気付く。
「はい、そうです。ここ、紅茶が美味しいって有名なんですよ! 私の大学でもちょっと話題になっ
てるんです」
「そう」
なるほど、道理で自分の知識ではカバーしきれないわけだ、と改めて秋山はメニューに書かれた、
異国の文字で綴られた、見知らぬ紅茶の名前を眺める。
しかし、いくら眺めたところで、それがどういった味のどういったものであるかなどさっぱりと分
かるわけがない。
「君はどうするの」
そこで、自分と同じようにメニューを手にして、こちらはたくさんあるものの中からどれにしたも
のかと真剣な面持ちで考えている直の姿をちらりと見て、そう問いかけた。
「えーと、すっごく悩むんですけど、私ミルクティーが好きなんで、アッサムとかディンブラとかが
いいかなって思うんですけど、この時期のダージリンっていうのも捨て難くて………」
やっぱり、シロニバリか、ダージリンかなあ、と呟くのを聞いて、秋山はパタンと持っていたメニ
ューをテーブルに放り投げるように置いて、まだ悩んでいるらしい直へと視線を戻す。
「じゃあ、それ二つ頼めば」
「ええ!? でも一人じゃちょっとそれは飲みきれないですよ」
「だから、一つは君ので、もう一つは俺のってこと。そうすれば、どっちも飲めるだろ」
それは周囲でお茶を楽しんでいる他の客のテーブルの殆どに、ティーポットが人数分乗っているこ
とに気付いていたからの、提案だった。
つまり、カップではなくポットでサーブされるのならば、別のものを頼んで分け合うのは非常に簡
単な話でありおそらく誰でも思いつきそうな手段だといえるだろう。
ところが、彼の提案に直の反応は著しく予想と異なる反応をみせた。
「あ、そうか! そうですね! 秋山さん頭いい!」
その方がお得ですもんね! と嬉々として言う様はなんとも微笑ましいのだけれども。
頭がいいとかそういうことでもないだろうと、秋山は思ったが言わずにおいた。
こういうのは、生活の知恵とか、そういった方面のものじゃないのか、と思い、いやそれも違うの
か、と自分に突っ込みを入れてしまう。
そういうことが、最近増えたな、と改めて小さく溜息。
最近ではない。
正しくは、神崎直と言う、まったく未知の領域の異空間に存在しているとしか思えない、少なくと
も秋山の知り得る常識的な範疇にはまったく存在しない人物と関わり合いになってから、だ。
そんな彼の内なる葛藤をもの見事にスルーしてみせた直は、すみません、と店員の一人に声をかけ
ている。
それを視界の端に見ながら、なんとなく秋山はテーブルに置いたメニューを再び手にとって、それ
を開き見知らぬ文字を追いかけていた。
単なる、それは知的好奇心を含む、手持ち無沙汰な状態を打開するための何気ない行為だったのだ
ろう。
「お決まりですか?」
「はい、ええと、シロニバリを、ミルクで。あと………」
そこまで言ってから、はっとしたように直の言葉が止まった。
どうしかしたのか、と見るともなしにメニューを眺めていた秋山は、黙り込んでしまった直に視線
を投げる。
すると、そこにはとてつもなく真剣であり、かつ情けなさそうに歪められた表情を湛えて自分を見
つめている顔と遭遇し、なにごとかと思わず眉を片方だけ軽く吊り上げていた。
「どうしたの」
「いえ、あの………秋山さん、よかったんですか? シロニバリもダージリンも、私が選んだもので
秋山さんの選んだものじゃないのに」
頼んでしまって、と最後には小さくなってしまった声に、なるほど、と秋山は納得する。
しかし勿論のこと、それにはまったく問題などなかった。
なにしろ選ぶにしても秋山にはまったく種類も味も分からないのだから、最後には目を瞑って、こ
れ、と適当に指差すしかない。
それなら直の好きなものを二つ頼んでしまった方がずっといい話だと、彼の中では判断されていた
のだが、そんなこととは露と知らない直にしてみれば勝手に自分の好きなものを二つも注文してしま
って申し訳ない、とそんな気持ちで一杯なのだろう。
おまけに秋山がずっとメニューを持っていたものだから、何か注文したいものがあったのでは、と
そんな方向違いの心配をしている可能性もある。
「別にいいよ。というか、そうしてくれるとありがたい」
「え?」
どう言う意味ですか? と言いたげに直の首が傾げられる。
すみません、意味が分かりません、と表示する実に分かり易い彼女の癖だ。
確かに今のは説明不足だったか、と秋山は持っていたメニューを開いたままでテーブルに置いた。
「俺、こういう銘柄っていうやつのことは、さっぱり分からないんでね」
「そうなんですか?」
「ああ。コーヒーだってそうだ。特にこだわりもないし、誰も知ってるような銘柄は知ってても、
詳しいことなんてまるで知らないしね」
「てっきり、いつも同じ缶コーヒーを飲んでるから、こだわりがあるのかと思ってました」
「それは偶然。や、偶然ではないか」
「え?」
「お客様、ご注文はいかがなさいますか?」
秋山の独り言めいた呟きに思わず聞き返してしまった直の声に重なるように、すっかり蚊帳の外に
放置された状態になっていた店員が、控えめながらも問いかけてくる。
それを耳にして、慌てて直は注文の途中だったのだ、と思い出した。
「す、すみません、ええと、じゃあ、シロニバリをミルクで、あと、ダージリンは………」
ちらりと秋山の顔を見てから、直は続ける。
「ストレートでお願いします」
「承知しました。少々お待ちくださいませ」
軽く頭を下げて、店員は席を離れた。
ふう、と胸を撫で下ろすように、直は息を吐き、テーブルに開いたままで置かれているメニューを
見る。
「どういう意味なんですか?」
「なにが?」
「ええと、偶然じゃないって」
「ああ」
口に出してたのか、と秋山は直の質問に軽く唇に右手の指をなぞらせた。
「簡単なことだよ。俺のアパートの傍にある自販機で、一番右のボタンをいつも押してるからさ」
「ええ!?」
思わず口から大声が出てしまいい、直は口に両手を当てると慌てて店の中をきょろきょろと見回し
申し訳なさそうに少し、項垂れる。
しかし、黙ってはいられないようで、声を小さくボリュームダウンさせると、言葉を続けた。
「それじゃあ、その右に入ってるコーヒーの銘柄が変わったら」
「当分の間はそれになるだろうな」
「秋山さん、それ、ちょっとずぼら過ぎます」
「別にこだわりはないから、構わないよ」
「そういうことじゃなくて………いえ、それはそれでも構わないのかもしれないんですけど、ええと
ですね、私が言いたいのは、秋山さんって、コーヒーが特に好きってわけじゃないんですよね?」
話が完全にスキップしている。
秋山はそう思った。
次から次へと話題の転換が早くて、常日頃から直との会話には実はかなり脳活動が活発になる。
気をつけていないと、うっかり彼女がなにを言い出すか分からず、知らぬところであらぬ話に拡大
解釈されていたり、前の話題から次の話題への切り替えしについていくのが遅れたりすると、かなり
の致命傷となることも、稀どころか頻繁にあった。
時々踏みつけられる地雷なんて、その威力たるや凄まじい。
それを踏まえたうえで、さて、コーヒーときたか。
経験をその後の人生に生かせないようでは、人間をやっている意味がない。
学習してこそ人間だ。
しかし、残念ながら秋山が向こうに回している相手は、そういう常識や常套手段がまったく通用し
ない稀に見る人間であったから、厄介この上ない。
厄介なら関わらなければいいのだが、関わらなければ関わらないで、今度はいらぬ心配があとから
あとから湧き出てきて最後には大洪水を起こしてしまうのだ。
床上浸水どころか流されてしまうかもしれない水を、事前に防波堤で防いでおくのもまた、一つの
智慧と言うべきなのかどうか、それはこの場合においては難しい判断を要求されるけれども。
「秋山さん?」
返事のないことを不思議に思ったのか、はたまた余計なことを聞いてしまったのか、ときょとんと
していた直の瞳が、ゆっくりと曇り出す。
ので、秋山は思考を打ち切って行動に出た。
「まあ、好きでも嫌いでもないな。言ったろ、他に飲むものがないからだって」
「お水とかお茶とか」
秋山が答えてくれたのが嬉しかったのか、直の口調が元に戻る。
「水ならペットが冷蔵庫にあるだろ」
「そうですね」
思い返してみて、確かに秋山のアパートにあるあまり大きくはない冷蔵庫の扉のポケットのところ
にミネラルウォーターのペットボトルがある映像が脳裏に浮かび、こくん、と頷いた。
(まさか、あの冷蔵庫が活躍するようになるとは、思ってなかったんだがな)
彼女が頻繁に訪れるようになる前は水とパンぐらいしか入っていない、実に見通しのよいものだっ
たそれも、今では様々な食材や野菜、調味料がひしめき合うようになっている。
一人暮らしの長い直はそれなりに手料理をこなし、一人より二人の方が経済的です、というもっと
もらしい意見を手に翳して秋山のアパートを強襲してくるようになって久しい。
初めは一人暮らしの男の家に、気軽にひょいひょいやってくるなんてなにを考えているんだ、と本
気で窘めたのだが、そのたびに直の論旨が今ひとつな、それでいて妙に自信に満ち溢れた言葉が返さ
れて、両手では足りないだけ回数を繰り返した後、ついに諦めて止めている。
以後、秋山と直の妙な関係は現在まで続いていた。
世界は不思議で満ちている。
論理的な思考回路を旨とし、現実主義な秋山にそんなことを思わせる直とは、彼にとって紛れもな
く抗うだけ無駄な最強の存在に違いなかった。
「………まさん、………あきやまさん、………秋山さん?」
「なに?」
思考がまたしてもあさっての方角へ向かっていたところに呼びかけられて、秋山の意識はどうにか
現実に戻って来る。
「だから、ですね。コーヒーが特に好きじゃあないってことは、他のものでも全然構わないってこと
ですよね?」
「まあ、そうなるね」
「じゃあ、お茶にしませんか? コーヒーじゃなくて!」
「………一応聞くけど、なんで?」
「だって、あんまりコーヒーばっかり飲んでたら、胃がやられちゃいますよ!」
予想通りだった。
実に見事に。
「だから、コーヒーは止めて、お茶にしましょう!」
にこやかに微笑んで、そうした方が絶対いいです、と力説する直の瞳が語っているものは、紛れも
なく秋山の身体を心配しているのだと、訴えるようなそれ。
確かに、別にコーヒーであろうとなかろうと、それはどっちでもいいもので、彼女の意見を聞き入
れてもまったく構わないとは思うのだが。
とりあえず、これだけ聞いておこうか、と秋山は開きっぱなしになっていたメニューを閉じて、ギ
シリ、と籐製のイスに背中を預けるような恰好になった。
「それ、誰に聞いたの」
「昨日大学の友達に聞いたんです。大変なんですよ、その子のお兄さん、胃を悪くしちゃって、入院
しなくちゃならなくなって」
そしてそれを、そのまま自分の日常行動に当て嵌めて、さっきの発言に帰結したわけか、と秋山は
どこまでいっても真っ正直で素直な思考回路を持つ直に対してなんというべきかを、悩んだ。
とかく他人の行動に対してどう対処するかを悩むなんてことをしない彼にとって、珍しいことこの
上ない現象だった。
ただし直に対しては、まったく珍しいものでもなんでもなかったけれども。
しかし、そこでふと、秋山は思った。
「俺、そんなにコーヒー飲んでたか?」
「飲んでますよ。一日最低でも三回」
そうだったかな、と秋山は自分の行動を振り返ってみるが、無意識に行っている行為は記憶に残る
ことがないものだ。
「本当ですよ? 私、ちゃんと数えてますから」
「だろうね」
彼女が嘘を言うとは思えないから、記憶になくともそれは事実なのだろう。
(三回ねえ………)
そこまで考えて、秋山の思考があるところへ辿り着き、そこで完全に固まってしまった。
「秋山さん?」
「………きたぜ、注文」
「あ、ホントだ!」
自分たちのテーブルに向かってくる先ほどのウェイトレスに、直が嬉しそうに声を上げる。
お陰で直の意識が自分から逸れたことに、秋山は無意識の溜息を落としていた。
なんてこった、と呟いた声は心のものだったのか、音になっていたのか。
「秋山さん、いい匂いですよ! どっちから飲みますか?」
「君が選んでいいよ」
「あ、そうか、秋山さん分からないんですよね。分かりました、じゃあ、先に私がシロニバリで、
秋山さんはダージリンにしますね」
語尾に音符でつけていそうな口調で言いながら、直はウェイトレスがこちらの砂時計が落ちきっ
たら飲み頃です、と言われた言葉を実直に実行すべく、じいっと落ちていく砂を見つめている。
そんなに真剣にならなくても、と思いつつ、秋山は視線を窓の外の風景へと投げた。
昼下がりの、真っ直ぐな光が降り注ぐ公園には眩く耀く緑が溢れ、その合い間には色鮮やかな花
が妍を競う様も艶やかだ。
短くなった木蔭に涼を求めたのか、野良猫らしい姿が見える。
人の気配に敏感な彼らが安穏と惰眠を貪るほど、この場所は安全だということなのか。
野良ならもう少し危機感を持てよ、と実にどうでもいいことを思ってしまったのは、すっとんだ
思考を巡らせた自分に対しての牽制だった。
「秋山さん、はい、どうぞ。ダージリン、すっごくいい匂いですよ。お砂糖とか入れてませんけど
大丈夫ですか?」
「ああ、いいよ。ありがとう」
「大人ですよね〜。私はどうしても甘いミルクティーが好きで」
ついついお砂糖入れすぎちゃうんです、と笑って、直は自分のカップを手に取る。
そしてそっと口に運び一口含んで、美味しい、と笑ってみせた。
それに倣うように自分の前におかれたカップを取って、秋山も飲んだ。
なるほど、コーヒーとはまったく違う、しかし薫り高いものがあるな、と思い、脳裏に浮かんで
しまったコーヒーの四文字に、再び、思考が固まりそうになった。
なんてこった、自分でも気付いていなかったことを。
(こいつに教えられて知るって、どうなんだよ)
おまけに、と自爆すると分かっていて秋山の思考は巡る。
つまりそれは、それに気付けるだけの時間を、彼女と共有していたという、ことに他ならない。
「美味しいですか?」
彼女の性格に準えて、ごくごく正直に応えるのなら。
(味なんて分かるか)
なのだが、ここでそう返せばどんな結果に辿り着くのかが予測できないほどには混乱の極みには
陥っていなかったらしい。
「ああ」
さらりと出る嘘も、こんなときにはむしろ役に立つものではないだろうか。
「よかった!」
にこにこと笑顔を満開にさせて、直は自分のカップに再び口をつけて本当に美味しそうにそれを
飲む。
だからとりあえず、秋山も同じ行動を取った。
明日から、あの自販機の前に立つ自分の姿はもうないかもしれない。
そんなことを、ぼんやりと思いながら。
クラシックが流れる小奇麗な喫茶店の中で、荒れ狂う暴風と一人戦う青年の主張は、静かにしか
し止まる気配も当分ないままに、声なき声で訴えられていた。
「今度はこっち、飲んでみますか?」
「ああ」
「分かりました」
勿論、そんなものは誰にも届くことはなく、一番聞いて欲しい相手には到底気付かれることもな
いままだ。
きっと今この光景だけを目にしたのなら、穏やかな午後ということに、なるのだろう。
「はい、どうぞ! 美味しいですよ!」
「ありがと」
昼下がりの午後の公園で、僅かの木蔭で転寝をしていた猫が大きな欠伸をしている。
窓の外はあれほど穏やかで平和そうな様子を呈しているというのに。
青年の心象風景はきっと。
-end-