■満月目玉焼き
夕方近くまで降っていた雨のせいだろうか。
初夏を間近に控えているにも関わらず、吹き抜けていく風は頬をひんやりとしている。
まだ地面に残った雨の名残の水溜りを避けながら歩いていく秋山の前には、楽しそうに同じく水溜
りをひょいひょいと飛び跳ねるようにして避けながら歩いていく直の姿があった。
煙草の煙をふう、と吐き出しいつもと変わらない表情で歩いているが、前を行く背中がいつ転ぶか
と、秋山がひやひやしながら見守っているとは知りもせず、実に楽しげだ。
雨が止んだから、お散歩に行きませんか。
そんな彼女の、彼女らしい唐突な申し出を秋山が諾として受け入れたのは、煙草のストックが切れ
ていたからそれをついでに買ってくるか、という理由付けがあったからだ。
秋山はアウトドアな人間ではない。
必要とされない以上の外出はしないし、目的もなしにただぶらぶらと散歩をする、という趣味もな
い。
もしも彼を散歩に誘ったのが神崎直という地球上の何処を探してもそう簡単には見つからないだろ
うと思えるくらいに希少価値のある人間でなかったのなら、煙草を買う、という理由付けをわざわざ
してまで出かけたりはしなかっただろう。
「すごいですねー。あんなに雨が降ってたの嘘みたいに、空晴れてますよ」
ようやく満足したのか、水溜りを飛び越すということを止めた直が空を示してそう言うのを、転ば
ずに済んでよかった、と胸を撫で下ろしていたとは知る由もないに違いない。
「明日も晴れるかなー」
「天気予報では晴れだったな」
「そうですか! じゃあ、お洗濯頑張らなくっちゃ」
ここのところ雨続きだったから、溜まっちゃってますもんね、と言いながら自分に追いついてきた
秋山の隣に並び、直はポケットに手を突っ込んだままの秋山の左腕に自分のそれをひょいっと絡めて
きた。
初めは秋山が揶揄い半分でしかけた行為だったのだが、それが事の他嬉しかったようで、二度目か
らは直の方からことあるごとに腕を組んでくるようになったのは、紛れもない秋山の後悔は後から悔
やむから後悔とういうのだ、と実感させられる計算違いだったろう。
しかし、それも数を重ねれば特に意識をすることもなくなる。
慣れとはまことに恐ろしい。
そして、虫の声も聞こえてきた夜の河原をのんびりと秋山のアパートに向かって歩く道すがら、直
はあっちへこっちへとクルクル変わる話題を二人の間に提供し続けた。
秋山それにたいして、ああ、そう、といった返事を返すだけだったが、直のお喋りは止まる様子も
なく、大学での友達との会話や、講義で聞いたこと、読んだ本や雑誌の記事の話していく。
そして、夏休みに何処に行きましょうか、とそんなところに話が移り変わった直後だった。
「あ!」
「なに?」
それはもう唐突に、直が声を上げたものだから、足でも捻ったのかと秋山は足を止める。
大丈夫か、とそう聞こうと口がその最初の一音を綴る形を象ったのだが。
「秋山さん! 見てくださいよ! 満月です! まんまるですよ、お月様!」
「………………………お月様ね」
音となったものはまったく異なる言葉となってしまった。
はしゃいだ声を上げる直につられるようにして、秋山の視線も空を捉える。
確かにそこには妙にはっきりとした金色の月が丸々とした姿で、浮かんでいた。
「凄いですねー。美味しそう!」
「は?」
「なんだか、目玉焼きみたい。あんなにまん丸で綺麗に作るのって、けっこう難しいんですよ。私な
んでか上手くいかなくて、フライパンに入れるときに潰れちゃったりするし」
「ああ、そういうの、あったね」
「覚えてなくていいですよ! 忘れてください!」
今はそんなことないんですから! と言って、直は秋山の腕を軽く抓った。
「秋山さん」
今度はなんだ? と思いながら視線を向ければ、大真面目な顔をした直がこちらを向いている。
「あのお月様で目玉焼き作ったら、何人分になるでしょうね?」
とりあえず、相当の数になるのは間違いないだろう。
それよりも、あれで玉子焼きを作るだけのフライパンってのはどうやって調達するんだ。
というより、月を見て目玉焼きってのはどういう連想なんだ。
突っ込むところが多すぎて、咄嗟に選択することのできなかった秋山は、一度開いた口を一端閉じ
てしまう。
「秋山さん?」
「いや、ごめん、なんだって?」
「ええと、お月様の目玉焼きって、何人分くらい出来るかな、と思って。秋山さんはどれくらいだと
思いますか?」
俺なら絶対答えをくれるに違いない、と疑いもしないで真っ直ぐに自分を見上げてくる直に、秋山
の頭の中ではウサギが跳ねた。
呑気に餅を搗く姿がちらりほらりと浮かんでは消えて。
そのウサギが答えを待つ少女の姿に被ってしまったあたりで、ヤバイだろ、それは、と思考を軌道
修正し。
「ダチョウの卵だと、鶏の卵の三十個分くらいあるって言うけどね」
「そうなんですか! じゃあ、月だと、どれくらいになるかなあ」
考え込んでしまった直が、これ以上とんでもないことを言わないうちに応急措置をとらなくては、
と改めて口を開いた。
「とりあえず、明日あれに負けないくらいの目玉焼き作ってくれる?」
「はい、分かりました! すっごいの作っちゃいますから、期待してて下さいね!」
秋山からリクエストをされたのが嬉しかったのか、直はにこにこと笑顔を浮かべて他になにを作ろ
うかなーと、あれやらこれやら上げている。
他になにか作って欲しいもの、ありますか? と問いかけてくるにの、君の好きにしていいよ、と
答えた秋山の目に、見慣れたアパートの姿が月灯りの下に見えてきた。
最後の方はすっかり散歩を楽しむどころではなくなっていたが、まあ、どうやら隣でお喋りを繰り
広げている少女は満足しているようだからいいだろう、と思う。
自分がどれだけ神崎直という人間に対して甘いのかを、今さら自覚するまでもないことで、逆に認
識すればひたすら凹むだけど分かっているからそこから先の思考はシャットアウトした。
そしてジーンズのポケットを探って鍵を探し、アパートの古びた階段を昇る。
アパートの向こうに呑気な顔をして浮かぶ、まん丸に耀いている金色の月が、笑っているように見
えたのは気のせいだということにして。
-end-
月が美味しそう、といったのは自前談。友人Tに「は?」という顔をされました。
「月が綺麗って言うのは分かるんだけど、美味しそうって………」と、非常に複雑そうな顔をされて
しまいましたが………いやでも、まん丸の月って、美味しそうじゃないですか?
二人は同棲なのか同居なのか、はたまたまだ通い彼・彼女状態なのか。とりあえず、デフォルトでう
ちの秋山氏はヘタレなので、手は出してないでしょう。