■世界は廻り 陽は昇る
地平線に半分溶け込んだ太陽が、西の空を朱色に染め上げている。
残照の投げかける光は金色の輝きを孕み、灰色をした雲の腹を鈍色を含ませた紅に変えてゆっくり
と沈んでいく様は、さながら世界の終焉を思わせる。
東の空には、気の早い月がうっすらと白い顔を露わにしているが、まだ太陽の伸ばす光が勝ってい
る夕暮れ時の風景は、どこか暖かくも寂しげなものがあった。
「すごいですね」
「ああ」
歩いていく道の先の、町のシルエットを浮き彫りにする太陽の姿に素直な感想を述べた直に対して
返された秋山の返事はそれだけで、彼女に同意したものだったのか、単に応えを返しただけのものだ
ったのかはっきりとは分からない。
しかし、直はそれでも十分だったようで、にこにこと笑いながら、艶やかに錦織り成す夕暮れ空を
見て綺麗ですね、と言葉を続けた。
「世界中、真っ赤に見えますね」
彼女の言うように、町並みも通りも街路樹も、どこもかしこも茜色の薄いヴェールをかけられてい
るように見える。
秋山は手を翳すことなく、その光の源である熟れた果物のような姿を視界に捉えた。
ゆうるりと、それはさっきよりも随分地平に身を沈めている。
太陽が夜を招いて、新たな場所に朝を齎すために去ってゆく、その間際の僅かの時間にだけ見るこ
との出来る風景は、何故か情動を揺り動かす不思議なものがあった。
幼い頃のことを思い出させる、そこに何があるのか。
遊びに夢中になって、時間を忘れていると、夕暮れが訪れる頃にはみな母親が向かえに来て、それ
ぞれに帰っていく。
取り残されるのはいつも。
「ふふ、秋山さんも真っ赤ですよ」
そんなことを言って、楽しそうに笑う直に、秋山はふっと視線を巡らせた。
視線だけのそれに直は気付くことなく、再び太陽に目を向けて、そう言えば、と話し出す。
秋山は何も言わずにそれに、ただ耳を傾けた。
「子供の頃、なんとなくこの時間が来るのが寂しかったんですよね。皆お母さんが向かえに来てくれ
て一人ずつ帰っていって、最後には私だけ残っちゃうんですよ」
それが、ちょっと寂しくて、とそう言ってから、直は夕陽に向けて指をピストルに見立てて、バー
ン、と打つ真似をしてみせる。
寂しいと、それを口にしてしまえる強さ。
自分の心を隠すことを知らない、彼女のそれに、秋山の目が僅かに細められた。
「君は、子供の頃外で遊ぶ子だったのか? そういうイメージないけど」
「けっこうこれでも、お転婆だったんですよ! 木に登ったりして遊んでました」
「木登り? 君が?」
「あ、ひどい。私には無理だって思ってます? でも、本当は登ったことは一回だけなんです。その
時も、降りるときに失敗して、落ちちゃったんですけど」
「やっぱり」
「なんですか、そのやっぱりって!」
秋山さん、ひどいです!
子供のように頬を膨らませて怒る直に、秋山はクックック、と喉の奥で殺すような笑みを、少しも
隠そうともせずに漏らした。
「秋山さん、木登りとか上手そうですよね」
「さあ、どうだろうね。やったことがないから分からないけど」
「秋山さんって、外で遊ばない子だったんですか?」
「まあ、どっちかって言えば」
「そうなんですか」
運動とか、すごくしてそうに見えるんですけどね、とついさっきまで膨れていたのは誰なのか、と
思うほどに直の機嫌はすでに元に戻っている。
クルクルと、万華鏡のように表情豊かな直に、秋山は時々感心させられた。
彼女らしいと思うそれを好ましく感じるが、それによって引っ掻き回されることもあるのは、些か
頂けないのだけれども。
「あー、沈んじゃいますね」
最後の、その刹那に。
太陽は明日の来迎を約束するかのようにして、一際眩い光を空へと投げた。
藍色のインクが溶け始めた世界が、その一瞬だけ、赤く染まる。
まさにその時。
「………………」
耳元で、囁きかけた秋山に、太陽を見送っていた直が慌てて音を立てそうな勢いで自分よりも高い
位置にある秋山の顔を見上げる。
それを狙ったかのように、いや、紛れもなく狙って。
「君の顔も真っ赤だな」
離れる瞬間に、殆どゼロ距離の近さで、可聴音ギリギリの小さな声が言った言葉を、直は勿論、聞
き逃さなかった。
「あああああ、あの、秋山さん」
「なに?」
「ここって、外ですよね!?」
「そうだけど」
それが? と言外に言っているとしか思えない口調の秋山に、直はあわあわと自分の口を押さえる
ようにしながら、なんとか言葉を綴る。
「外ではダメです、って言ったじゃないですか!」
「言ってたね」
「分かったって、秋山さん言いましたよね?!」
「言ったね。君の言いたいことは、分かった、って」
「え?」
「承諾した、とは言ってないから」
「え、え、えええと、それって」
必死に頭を働かせる直に、くす、と小さく笑うと、秋山は彼女の背中を軽く押した。
「さて、太陽は沈んだし、少し急ごう。腹も減ったし」
「あ、そうですね………って、そうじゃなくて、秋山さん、さっきの話!」
「あとで聞くよ」
「本当ですか?」
「本当」
分かりました、と渋々といった表情だったが、直が承諾するのを見て、秋山はこっそりと笑う。
あとでが、いつかとは言っていない。
そう告げたときに、直がどんな反応を見せるかを想像するのは容易かったのだろう。
「ところでさ」
「はい?」
「外でってことは、家の中なら構わないってことだよな」
「ええと、そういうことに、なるのかな………?」
きょとんとした直が、考え込むように首を傾げる。
自分の言った言葉の真意を掴むのに、どれくらいかかるだろうかと秋山は素知らぬ顔で、ついさっ
きまでの夕暮れの名残は綺麗に一層され、今は宵闇の降りた空を見た。
今頃、地球の裏側に朝を齎しているのであろう太陽が、そこに戻るのはまだ先の話。
もしもまた、明日の夕暮れも今日のように鮮やかに染まるのなら。
また二人で眺めてもいいかもな、と秋山が思っていたことを、勿論、直は知る由もない。
-end-
書きたかったシーンだけを引っこ抜いたら、書き出しと結末が別の話になってます(汗)
しかし、これを完全な形にするには、この三倍は必要になるので………。