■音
 雑踏。
 クラクション。
 誰ともしらない人たちの、声ともつかない音。
 店から流れてくる音楽。
 ほんの少し意識を向けると、世の中は様々な音に満ちている。
 些か賑やか過ぎるそれらに無意識に溜息を落とした後で、秋山は隣に座る相手に視線を向けた。
「ご、ごめんなさい、秋山さん………」
 それまで彼の耳に流れ込んでいた音をすべて掻き消して、耳に飛び込む小さな声。
 俯くようにして、手にしたハンカチをぎゅっと握り締めて、肩は小さく震えていた。
 どこからどう見ても、泣いているとしか思えない。
 歩行者天国になっている通りで、簡易的に用意された休憩用の椅子に腰を下ろしたのは、かれこれ
軽く二十分以上前のことになるだろう。
 その間、直はずっとこの状態だった。
 通りを行く者の中には、ちらちらとこちらを窺い見るようにしていく輩がなんと多いことか。
 その何割が、秋山に対して、「あんな可愛い子を泣かせるなんて、何をしたんだあの男は」とか、
直に対して「あの子可哀相に、彼氏に別れ話でも切り出されたのかしら」とか、好き勝手な想像をし
ているだろうことは、あまりに明白すぎて秋山は笑うにも笑えない。
 しかし、そんな外野のことはどうでもいいのだ。
 とりあえずは、目の前の子をなんとかするのが先だろう。
「ほら」
「………すみません………」
 差し出されたハンカチを素直に受け取って、直はそれを目元に当てる。
 彼女の自前のハンカチは、二十分という時間の経過を経て、すでに本来の目的用途を果たせない状
態になっているだろうと判断して、秋山はいま少し時間を必要としそうな直に自分のものを差し出し
たのだ。
 だが、予想よりも早く、状況は改善の方向に向かいだした。
 ズズ、と鼻をすするような音がして、ごしごし、と手の甲で目尻をこする仕種をする直の頭の上に
秋山はぽん、と手を乗せる。
「よく、それだけ泣けるもんだな」
「う………秋山さんこそ、どうして平気なんですか」
「なんでと言われても、困るんだけど」
「私、本当に怖くて」
「みたいだね」
「心臓が止まるかと思いました」
「肝心なときには、殆ど目を閉じてたように思うけどな」
「そ、それは………」
 ううう、と唸るように言葉に詰まった直だったが、秋山との軽口めいた会話で気分が浮上したのか
涙の跡は残るものの、いつもの表情が戻ってきた。
「そんなに怖かったか? あの映画」
「怖かったですよ!」
 両手の平を握り締めるようにして、直は良く分からない、という顔をみせた秋山にずいっと迫る。
「映像も怖かったし、音楽も怖かったし、出てる役者さんたちの演技も怖かったじゃないですか」
「だけど、全部結局は演技だろ? 現実のものじゃない」
「そうなんですど、もしこれが本当のことになったら、とか思うと怖かったし、それに主人公の女の
人が、追い詰められて、友達とか殺されちゃって一人になって………それが可哀相で………」
 いかにも直らしい共感の仕方だと、秋山は思った。
 それで、映画が終わった後も二十分以上泣いていたのだから、本当に恐れ入る、と置いたままにな
っていた手をで、ぽんぽんと直の頭をニ、三回軽く叩く。
「まあ、君らしいとは思うけどね。そんなに怖いなら、なんであの映画を選んだんだ?」
「ええと、大学の友達が、面白いから見てみなさいよ! って教えてくれたんです」
 そしてその言葉を素直に信じて、じゃあ見てみようかな、と秋山を誘ったというわけか。
 その友達とやらは、本当に面白いと思って直に勧めたのか、それとも半分冗談でそう言ったのか、
それは分からないが、その前にどういう映画なのかを下調べくらいしておくもんじゃないのか、と秋
山が言いかけたときだった。
「その子が、行くなら絶対、彼氏と一緒に行った方がいいわよ、って言ってたんです」
「………へえ?」
「だから、その、あの」
「俺を誘ってくれたわけか」
「………すみません、秋山さん、つまらなかったですよね」
 なるほど。
 秋山は直の友人の意図したものを、瞬時に理解し、そして思わず笑ってしまいそうになるのを辛う
じて堪えた。
 ある意味で、友人の狙いは当たり、ある意味で外れたと言えるのだろうか。
「別に、つまらなくはなかったな」
「本当ですか?」
 疑わしげな目を、上目遣いに直は秋山へと向けた。
 上映中、まるでいつもと変わらぬ様子でスクリーンを眺めていた秋山の様子からは、つまらなそう
な様子は窺えても、楽しんでいるという様子はまったく見て取れなかったのに、と無言で訴えてくる
大きな目に、秋山が笑い出さなかったのは彼の抜きん出た自制心があったからの賜物だろう。
「ああ。それなりに、楽しめたし」
「楽しめたんですか? あの映画が? 凄いですね、秋山さん」
 私なんて怖かっただけですよ、と溜息を吐く直の頭を最後にもう一度ぽんと叩いて、秋山は手を離
した。
「君はそう言うけど、だったらどうして、パンフレットなんか買ったの」
「え?」
 二人が向かい合って座る、テーブルの上には先ほど見た映画のパンフレットが入ったビニールの袋
が鎮座している。
 秋山の指摘に、ええと、と直は目線をパンフレットに固定した。
「昔から、見た映画のパンフレットって、絶対買ってたから、その、なんとなく」
「なるほどね、習慣化された行動だったわけだ。でも、それどうするんだ? 自分の部屋に置いてお
いて平気なのか?」
「………へ、平気、だと、思います、けど」
 それを見えない場所にしまっておけば、と言うが、その事を忘れてなんだろうとうっかり開いてし
まった後にはどうなることか。
 おそらく、メールも電話もすっとばして、血相を変えて秋山のアパートまで駆け込んでくるに違い
ない。
「じゃあ、これは俺の部屋に置いとけば」
「いいんですか?」
 やはり、自分の部屋には置きたくなかったらしい。
 自分で買った癖に、と思いつつも、秋山は構わないよ、と応じた。
「見たくなったら、いつでも見に来ればいいだろ」
「はい! いえあの………見たくなったら、ですけど」
 見たくないとは言えないのか、直は言葉尻を濁しつつ、最後にありがとうございます、と言う。
 何があってもその律儀さは変わらないらしい。
「じゃあ、少し遅くなったけど、昼にするか」
「あ、はい、そうですね。なんか、おなか空きました」
 ようやく直の気分が持ち直したところで、二人は席を立った。
「泣きすぎじゃないのか?」
「泣いたらおなかって空くんですか?」
「さあね。まあ、君の場合、在りえそうだな」
「私だけですか? じゃあ今度、秋山さんで実験しましょう! 秋山さんが泣けるような映画、見
つけてきます!」
 秋山を泣かせる映画、という、相当にハードルの高い目標を打ち立てて、直はよし、とばかりに
気合を入れている。
 どう考えても、それは無理だと思うけど、とはとても言えないくらいの意気込みをみせるものだ
から、秋山は結局何も言わずにおいた。 
 なんとなく、この後、直が山のように映画をレンタルしては訪ねてきそうな気がするのは、杞憂
じゃないんだろうな、と密かに思いつつ。
「あれ、でも、なんで、あの映画を見に行くときは彼氏と一緒に行った方がいいって、あの子言っ
たのかな?」
「さあね、なんでだろうな」
 不思議そうに首を傾げる直に、秋山は素知らぬふりで肩を竦めてみせた。
 暗闇の中で、自分の腕に縋りついて来て震えていた直の姿がその脳裏にあったことは、勿論尾首
にも出さずに。
「まあ、またああいう映画が見たくなったら付き合うけど」
「それは絶対ありません!」
 あんな映画、ダメです、見れません、と力強く否定する直に、それならそれでいいけど、と秋山
は軽く返事を返した。
 そしてそのまま、話題は昼の食事をどうするか、に移り変わったのだけれども。
 店を決めて、案内された席に腰を落ち着けたところで、不意に直が再び話を戻した。
「そう言えば、大きな音も怖いですけど、音がないのも怖いものなんですね。音が全部消えちゃっ
たシーンがあったじゃないですか、ちょっとそれも怖くて」
「ああ、あの映画は、それを効果的に使ってたな」
「音があって当たり前の生活してるからでしょうか」
「それもあるかもしれない」
 耳を掠める、世界を埋め尽くす音の群れ。
 雑踏。
 クラクション。
 誰ともしらない人たちの、声ともつかない音。
 店から流れてくる音楽。
 そして、今、こうして語りかけてくる、声。
「少なくとも、俺が聞こえなくなったら怖いと思う音はあるよ」
「なんですか?」
 興味津々といった顔の、直の表情に笑ってしまいそうになる。
「当ててみたら? 正解したらご褒美やるよ」
「本当ですか? でも、音なんてたくさんあるじゃないですか、範囲が広すぎますよ!」
「じゃあ、チャンスは三回にしたらどうだ?」
「無理です! せめてヒント下さいよー」
 ヒントねえ、と秋山は考えるふりで視線を直の目に合わせた。
 直も素直に秋山の答えを待って、居住まいを正しじっと見つめ返す。
「その音を俺に聞かせてくれるものは、世界にたった一つしかない」
「たった一つ?」
「そう」
 うーん、なんだろう、と眉を寄せて考え込む直を他所に、秋山は品書きを開いた。
 果たして彼女は答えを見つけられるだろうか。
 けれど、見つけても、見つけられなくても。
「分かりません、秋山さん」
 答えはもう、そこにあるのだ。
「さあね、ヒントは一つだけ。チャンスは三回。譲歩してるだろ」
「むー、絶対当ててみせます!」
 世界に一つ、他のどんな音をも消し去ってしまう音。
 そしてその音が、自分の名前を綴ってくれたなら。
「頑張りな」
「頑張ります!」
 無数の音の中で、たった一つの。
 その音がこの先もずっと、そこにあってくれることを。
 ずっと願っていくのだろう自分に、ほんの少し笑ってしまいながら。
 次にどんな音を紡ぎ出すのか、予想もつかない彼女に挑発するような笑みを秋山は浮かべた。
 

 
 
                                         -end-


無音って実は、ありそうでなかなかないものです。悟りでも啓けてないと、それは
相当なストレスになるでしょう。
ちなみに、どうやら直ちゃんの大学のご友人は、直ちゃんと彼氏の発展を望んでい
るらしいです。