■約束の海
「真っ暗ですね」
「ああ」
夜の海は、波の音ばかりが響いて、ひたすらに静穏の中にある。
空には細い月があり、僅かながらの灯りを灯していた。
けれど、それよりも遙かに、永劫の無窮を思わせる海の闇は深い。
潮騒を歌いながら沈黙を守る海の、奈落の底へと続くかの如き闇を眺めるともなしに眺め、二人
は並んで、きっと太陽の光の下には白く眩く耀くのであろう砂浜を歩いていた。
夏の盛りでありながら、宵闇に包まれた夜風はどこか少しひんやりとしているようにも感じられ
たが、大気にはまだ真昼の熱気の名残がある。
不意にその熱を払うようにして風が強く吹いて、直の長い髪を悪戯を仕掛けていった。
慌てて手をあてて押さえ、手櫛でくしゃくしゃにされたそれを直すと、ふう、と息を吐く。
「すごく、静かですね、海」
「そうだな」
自分の呼吸をする音さえ聞こえてきそう、と直は小さく笑みを浮かべた。
それきりしばらく黙ったまま、海を二人見つめていたのだが、不意に髪を押さえていた手が下り
て、顔がついっと空の月を見る。
「綺麗ですね」
秋山は、なんと返事を返そうとしたのだろうか。
しかし直はそれを待たずに、ついっと足を動かして秋山の隣から滑るように海へと向かった。
ゆっくりと、一歩一歩確かめるようにして波打ち際に歩み寄り、一端身を屈めて履いていたサン
ダルを砂浜に残し、また歩き出す。
寄せて、返す波の汀に、近付く白い足。
止まることなく夜を写した波の中にそれを浸して、直はゆっくりと海の彼方を目指すかのように
足を前へと動かし続ける。
何故か、止める言葉を秋山は持たなかった。
ただ、じっとその背中を見つめる。
果たして直には、それが分かっていたのだろうか。
「あのね、秋山さん」
膝下近くまで、打ち寄せる波に洗われるところまでいって、やっとその足が止まった。
そして、ゆっくりと振り返り、直は秋山に呼びかける。
「前に、言いましたよね、俺の何が、分かるんだって」
「………ああ」
もう随分前のことのようにも思えるし、ほんのついさっきのことのようにも思える、その記憶。
「あれから、私、ずっと考えてたんです」
何を、とは問いかけない。
彼女の言葉は半ば独白めいていて、ただ黙って耳を傾けることしか秋山には出来なかった。
「私、秋山さんの何を分かったつもりだったのかなあって」
海に映し出された闇に浮かぶ、月はたゆたいながら、青白くひんやりとして静かだ。
「秋山さんのこと、分かってあげたいって、思って、私に出来ることならなんでもしてあげたい、っ
てそう思って、だから、辛いことも苦しいことも、消してあげることは出来なくても、傍に居てあげ
ることは出来るんじゃないかなって思ってました。だけど」
その中に、直の声は大きくも小さくもなく、潮騒の音に掻き消されることもなく秋山の耳へと静か
に流れてくる。
「それが、私の、自己満足のものなんだってことを、秋山さんに、ああ言われたとき、気がついたん
です。秋山さんを助けたいと思うのも、秋山さんの辛い気持ちを分かってあげたい、少しでも軽くし
てあげたい、秋山さんの傍に居たいって、そう思うのは、全部全部、私の本当に身勝手な願いで我儘
でしかないんだって」
ぱしゃり、直の白く細い足に当たった波が、小さな音をたてて砕けて消えた。
「秋山さんはそんなこと全然望んでなくて、私にそんな風にされるのは迷惑なだけで、結局、全部、
私がただそうしたくて、そうしたいと思って願っていただけで、秋山さんのことなんて全然考えてな
んかいなかったんだなって、気付いちゃったんです」
秋山の足が、一歩、前に出た。
「だけど、だけどね、秋山さん」
闇の中にも月の晄を受けて白く光る砂を、踏みしめる音が波のそれに重なる。
「私、身勝手でも、我儘でも、秋山さんのこと、やっぱり分かりたいと思います。秋山さんが感じて
ること、嬉しいことも悲しいことも、楽しいことも辛いことも、全部全部、私も同じように感じてい
たいです。一人になって欲しくないんです。一人きりって、自由なのかもしれません。でも、一人じ
ゃ寂しすぎます。私、笑っていても泣いていても、そんな秋山さんの傍に居たいです」
泣いてはいなかった。
だがその声は、確かに、小さく震えていた。
「ごめんなさい、秋山さん。私、秋山さんのこと、多分きっと、何も分かっていないと思います。分
かりたいと思うんです、思うんですけど、でも、人の心って、難しすぎます。私は秋山さんが私と会
う前まで生きてきた時間を知りません。どんな風に考えて、どんな夢を見て、どんな風に生きてきた
のか、全然知りません。それなのに、秋山さんのこと分かりたいなんて、すごく傲慢なことなんだと
思います。でも、秋山さん」
声が、止まる。
肩口に触れている暖かさや、背中に回された温もりや、それから、全身で感じる、その規則正しく
繰り返される、命の音。
「………秋山さん」
返事は返らない。
ただ、抱き締められた腕に力が少し、込められたのを直は感じた。
それだけで、目の前の空高く浮かんで見える月が歪んでいくのが分かる。
「好きです、秋山さん」
言いたかったのは、多分、それだけなのだと口にして直は、やっと自分でそれに気付いた。
「私にはなんの力もなくて、秋山さんに迷惑かけるばっかりで、そんな資格なんてないかもしれない
んですけど」
抱き締める腕の、力が強くて背中が少し痛む。
だが、そんなものは少しも気にならなかった。
「だけど、傍に居たいです。秋山さんの。好きだから、ほんの少しのことでもいいから、秋山さんが
辛かったり苦しかったりするものを、どうしてあげることも出来ないかもしれないけど、それでも」
好きでいてもいいですか、とそう言う前に。
耳を打った音に、直の声が、止まる。
「………………秋山、さん」
くぐもった、声が聞こえた。
薄いカーディガンを羽織っただけの細い肩にもたれるようにして額を押し付けていた、秋山の声は
身体を伝うようにして直の耳へと届く。
「………あきやま、さん」
秋山が彼の頭を預けている自分の肩に暖かいものが落ちて、なだらかな曲線に従い伝っていくのが
分かった。
それがとても、嬉しかった。
「好きです。大好きです、秋山さん。この気持ちは、誰にも、秋山さんにも消せませんから」
ゆっくりと腕を持ち上げて、少しだけ躊躇いながらも秋山の背にそれを回す。
すると秋山の顔が動いて、上げられた。
月の落とした灯りの下では輪郭も曖昧だったが、それでも互いの顔は見間違わない。
涙でぐしゃぐしゃなんだろうなあ、と思いながらも直は、精一杯笑った。
それは無理矢理に作ったものなどではなくて、ただ、秋山に、彼が自分を思い出すときにはいつだ
って笑っている顔であって欲しいと、そう思ったからの、心からのもの。
そんな直の顔にかかっていた、月の影が息を潜めて秋山の影がそこに重なる。
時が止まって、世界が止まって、波の音も遠く、聞こえるものはただ、互いの鼓動だけ。
願うことは唯一つしかない。
どうか、どうかこの世界に一つしかない大切な人の心が、少しでも明るい少しでも暖かいものに、
この先ずっと包まれていて欲しい。
永劫の果ての先に続く時間の中で、きっと今こうしている瞬間は瞬きをするほどの時間もない、そ
んな僅かのものであったとしても。
繰り返し、繰り返し、ただ願う。
この命の続く限り。
これから先にどんな運命が待っていて、どんなことが起きたとしても、けして、けして、けして。
あなたの手は、離さない。
「大好きです、秋山さん」
潮騒の、歌う唄の響きを伴って、綴る声がどうか一瞬の永遠を紡いでくれますように、と。
「………………」
「はい。約束です」
寄せて返す波が、二人の足にぶつかり砕けて散って消え去って。
細い月は空の彼方。
無窮の果ての闇を巡りゆけば、その先にはまた朝がくるだろう。
そして、そこから。
巡る永劫の時の中の、一瞬の永遠の中に生きている。
抱き締めた腕に感じる温もりがすべて。
例えばそこが、灯りもない闇の中でも、繋いだ手が在る限り。
巡る月日のその果てに。
いつか、此処へ還るだろう。
本当のあなたと、もう一度出会うことの出来たこの約束の海へ。
-end-
10話が放送される前に、あの予告見て出来ちゃった話を上げておかないと(笑)
初のシリアスですが、こういうのが実はすごく書くのが好きだったりします。
BGMありの方では、カッチーニのアヴェマリアが流れています。
良かったら、そちらも見てやって下さい。
話のタイトル「約束の海」は、谷山浩子氏のアルバム「天空歌集」の中のものから。
この曲の歌詞が、ベースになっております。