■雨模様晩餐会
窓を叩く雨の音に、顔を上げる。
明け方前から降りだした細い糸のようなそれは、まるで世界をすっぽりと灰色の小さな箱庭の中
に収めてしまったかのようで、少しも止む気配などない。
はあ、と吐き出した溜息。
これで何度目だっけ、と思い、十を数えた後からはもう分からないと、思う。
泣き続ける空模様と同じように、いや、それ以上に重苦しい気持ちを抱えて、直はお気に入りの
クッションを抱えて窓際にぺたりと座り込んでしまった。
なんてついてないんだろう。
また、溜息が一つ。
昨日の夕方、いいや、日付が変わった頃まではまったく雨の気配もなかった。
昨夜見た天気予報では曇りだとは言っていたが、雨になるとは一言も言っていなかったのに。
一晩明けたら、突然雨の予報に切り替わっていたなんて。
「………お天気予報の、ウソツキ」
そんなことを言っても仕方ないと分かっていても、誰かに責任転嫁をしたくなる気分だった。
「あーあ、せっかく約束、してもらえたのに」
どうしてもお礼がしたい、と必死になってしつこいくらいに、頼み込んで。
気にしなくていい、余計な気を遣う必要はない、と毎回毎回梨の礫でまったく聞いてもらえなか
ったのだが、最後には直の根性が勝利を勝ち取った、ということになるのだろうか。
ようやく直は、秋山に何度も助けてもらったことへのお礼をする、という約束を取り付けること
に、成功した。
それが一週間ほどまえのこと。
秋山の仕事が休みで、直が大学の講義のない日を選び、その日に直が腕を揮って手料理をご馳走
する、というのがお礼の内容だった。
金銭的な礼は一切受けるつもりはない、とピシャリと言い切られて、秋山の断固とした態度に直
もそれは無理だと分かったし、なによりまだ学生の身で父親がホスピスに入っている彼女に工面で
きる金など高が知れていただろう。
そこで直が提案したのが、ご馳走します、というものだった。
自分では上手なのか下手なのか分からないが、それなりにレパートリーを持っていて数少ない得
意なものであったから、これならどうだ、とばかりに、あとはひたすら秋山にアタックした。
当初はそれも秋山からは色よい返事をもらえる気配さえなかったのだけれども、こればかりは諦
めるもんか、と必死に喰らいついた直に秋山もついに根負けし白旗を揚げるしかなかったに違いな
い。
ところが。
雨。
それも相当な降水量になっているだろうほどの、もの。
明け方に雨音で目が覚めてから、直は止んでくれないだろうか、と窓辺で空を見上げてひたすら
願い続けること六時間。
テレビで天気予報をやっているチャンネルを探してはそれを確認して、さらに一時間。
ついに、諦めるしかないと、電話を取った。
とってもとっても残念でしょうがないのだけれども、こんな雨の中を歩いたらびしょ濡れになっ
てしまうから、そんなことになったらとっても申し訳ないから、と。
後日またお互いに都合のいい日に、変更しましょう、そう秋山に約束の変更を申し出た。
ああ、そう。分かった。
電話越しに返された応えはなんとも素っ気無く、あっさりとしていて、直はほっとすると同時に
秋山がそれほど期待していた、というわけでもないのだと知って、落胆してしまった。
いや、そもそも強引に取り付けた約束だったのだから、秋山はむしろ雨になったことを感謝して
いるのかもしれない。
それでも、せっかく、頑張って、お礼、しようって。
ちらりと見る、キッチンの冷蔵庫。
低い音を立てているその扉の向こうに、昨日なにを作るか、それはもう智恵熱が出そうなくらい
に考えて店を何軒もぐるぐると回って買った食材が眠っている。
(ああ、無駄になっちゃうなあ)
秋山さんに好きなもの聞いておけばよかった、とか。
食べられないものがないのか、聞いておけばよかった、とか。
そんなの今さらだし、なんて自分は間抜けなんだろう、とか。
思いながらも、それでも秋山のために料理を作る、そのことに少なからず、いや完全に直は舞い
上がっていた。
それは、買った食材の量からも知れたし、実は飲んだことのないお酒を秋山は飲むかもしれない
と買ってきたことにも如実に現れていただろう。
それだけに、すべての計画がゼロに戻ってしまった事に対する、彼女の落胆は凄まじかった。
数日は立ち直れないだろうと、窓の向こうの雨をぼんやりと眺めて、思う。
それくらい楽しみにしていたのに。
(私、秋山さんにお礼する立場なのに、それが楽しみなんて………)
立場が反対、とまた溜息が一つ。
おまけに、本当は楽しみにしていて欲しかった、その相手はまったくどうでもいいことだとしか
思ってくれていなかったのだから、笑い話になってしまいそうだ、とまた溜息を落としてしまいそ
うになった時。
ピンポーン、と、チャイムが雨の音だけを響かせていた部屋の中に、やけに大きく響いた。
「あ、はい」
誰だろう、と直は首を傾げながら立ち上がる。
自分を訪ねてくれるような人は、いない。
郵便屋さんか、それとも新聞の集金かな、などと思いながら、直は小走りに玄関へと駆け寄って
カチャ、と外の相手を確かめもしないでそれを押し開けた。
「無用心」
「え?」
落ちてきた、低い声に吃驚して顔を上げる。
「まずは、外に誰がいるかちゃんと確認するまで、ドアを簡単に開けるな。女の一人暮らしで、無
用心過ぎるだろう」
「あ、はい、すみません、次から気をつけます………って、秋山さん!?」
思わず注意を促されたことにきちんと返事を返してから、はっとしたように改めて驚きの声を上
げてしまった。
「ど、どうしたんですか?」
「約束したからな」
「そ、そうですけど、あの、こんな雨だから、私」
「ああ、変更しようって、あれ」
電話のことを直が言っているのだと気付いたようで、秋山は雨のために水分を含んで少し重くな
っている前髪を軽くかき上げる。
「分かったとは言ったけど、行かないとは言ってないだろう」
「それは、はい、そうですけど、でも」
「それとも、迷惑だったか?」
「いえいえ、そんなことありません! すっごい嬉しいです! あ、とにかく中に入って下さい!
濡れちゃってますよね、タオル出しますから、どうぞ!」
風が特にあるわけでもないが、雨の中を歩いてくれば傘を差していてもどうしたって濡れる箇所
は出てしまう。
それに気付いた直は慌てて後ろに身を引いて秋山を中に招き入れると、パタパタと大急ぎで部屋
を横切って、大きめのタオルを手に戻ってきた。
「はい、どうぞ」
「どうも」
受け取った秋山は、それで軽く全身を拭いてから玄関を上がる。
そして直に案内されて、彼女らしいクッションが敷かれたテーブルの所へ腰を下ろした。
「はい! どうぞ」
「………ああ、ありがとう」
「どういたしまして!」
なにが嬉しいのか、秋山の目の前にアイスコーヒーの入ったグラスと、ガラスのポットを置いた
直は、彼の礼を聞いた途端にぱあっと笑顔を咲かせる。
「で、ご馳走してくれるんだっけ」
「あ、はい! 頑張って作りますから、楽しみにしてて下さいね! そうだ、秋山さん、お昼御飯
って食べました? 私まだなんで、もし良かったら、一緒にどうですか?」
ご馳走する、という約束は夕食のものだったので、昼御飯は約束の中には入っていない。
だが、時計を見れば秋山が昼食を済ませて此処へ来たと考えるには中途半端な時間で、直はもし
かしたら、と思って訊ねてみた。
「迷惑じゃないなら」
「迷惑なんかじゃないですよ! むしろ、嬉しいです! じゃあ、ちょっと待っててくださいね、
すぐに作りますから!」
直はさらに笑顔を広げて、ぱっと立ち上がるとバタバタと今度はキッチンへ向かう。
(なにを作ろうかな、あんまり時間をかけると秋山さんお腹空いちゃうよね)
冷蔵庫を開けて、ちょっと考えて、よし、と決めと、あとは手を動かすだけ。
一人暮らしで生活もけして裕福ではない直にとって自炊は必要不可欠のものであったから、普段
みせている様子からは想像しがたいが、こういう時の手際は良かった。
「雨の中、来てくれてありがとうございます、秋山さん。秋山さんが来てくれてすっごく嬉しいで
す」
「大した雨じゃないからな」
「そうですか?」
直は秋山との会話がよほど楽しいのかにこにこと顔が笑いっぱなしだ。
幸いと、秋山には背中を見せているので、見られないからいいよね、と思うと気を引き締めても
すぐに緩んでしまう。
「あのさ」
「はい?」
「これ、冷蔵庫に戻しておいた方がいいと思うけど」
振り返ると、秋山がコーヒーがまだ半分くらい入ったガラスのポットを手にしていた。
「あ、もういいんですか?」
「流石にこれだけ飲んだら、腹が膨れるだろ」
「それもそうですね、じゃあ」
「いいよ、続けな。自分でしまうから」
「すみません、ありがとう御座います」
律儀に礼を述べる直に軽く手を振って、秋山は彼女が立つキッチンの隅に置かれた冷蔵庫を開い
た。
そして、ガラスのポットをその中に収めて閉めるまでに、かかった時間はおよそ十秒。
「ええと、あの、良かったらテレビでも見てて下さい」
「ああ、適当にやってるから、慌てなくていいよ」
「はい、ありがとうございます」
やはり礼を言って直が振り返れば、秋山はすでに元の場所に戻って、テレビのリモコンを手にし
ていた。
その姿が、なんだかすごく嬉しくて、思わずふふ、と笑ってしまった直だったが、いけないいけ
ない、と自分の両頬をパチパチと叩き料理に意識を戻す。
ついさっきまで、雨の音だけが聞こえていた部屋の中は、テレビの音や、料理を作る音が賑やか
に溢れ出して やがて食欲をそそる香りが部屋の中に漂い始めれば。
「秋山さん、お待たせしました!」
にっこりと満開の花を咲かせた笑顔で、直は秋山を振り返る。
「ああ」
返されたのは、たったそれだけ。
けれど素っ気無いそれにさえ。
なんでか分からないけど、すごく楽しいし、嬉しいし、幸せだなあ、と直は思う。
「どうぞ。秋山さんの口に合うといいんですけど」
「いただきます」
その一言さえ、くすぐったいなあ、と微笑みながら直もいただきます、といってフォークを手に
取った。
外の雨は相変わらずで、多分、今夜はずっと降り続くだろう。
天気予報が当たれば、もっと酷くなるらしい。
(………泊まっていってもらった方がいいんじゃないかな?)
果たして秋山の好みに合う味付けが出来たのだろうか、と思うその傍らで、そんなことをふと直
が思っていたとは、もちろんのこと当事者の一人である秋山は露と知らず。
「どうですか?」
「君、料理上手いんだな」
「本当ですか? よかった!」
雨の音に紛れて、小さな感謝を込めた晩餐会への開幕ベルは密やかに鳴り響いていたのだった。
-To be continued-
直ちゃんが、とにかく頑張って頑張って頑張って、秋山氏を自宅に引き込んだ、話(違う)。
秋山さんがどうして雨なのに直ちゃん所へノコノコやってきたのかは、
この後にアップする予定の、秋山さんサイドからの話で明らかになります。
ついでに、直ちゃんの爆弾発言が投下される予定であります(敬礼)
で、結局続くことに決定したので、珍しくendでなく、To be continuedで終了!