■明日の淵瀬  −雨模様晩餐会2−
 切れた携帯を閉じて、とりあえず最初にしたことは窓の外を見ることだった。
 ほんの少し先も見えないような、なんとも見事な降り方の雨。
 なるほど、確かにこれは外出には不向きな天候だと十人に聞けばその殆どが答えるだろうな、と
秋山は切れた電話の先の相手に今さらの相槌を打つ。
 とりあえず、今日、電話の相手の家に出向いて夕食をご馳走される、という予定はこの雨によっ
て急遽取り止めとなったことに、秋山は安堵すればいいのかどうか、逡巡した。
 このまま雨天中止となって次がやってこないことを、願う気持ちがあるどこかで、それは絶対に
ないだろうな、と思う自分もしっかりと存在していたからだ。
 後日またお互いに都合のいい日に、変更しましょう、そう言っていた電話越しの声には適当に応
じておいたが、恐らく間違いなく、彼女はまたその次の約束を取り付けるために、常識ではまずあ
リ得ないほどの電話をかけ来るに違いない。
 凄かった。 
 とにかく彼女の一つことにかける情熱と言えばいいのか根性と言えばいいのか、それは秋山をつ
いには陥落させるだけのものがあった。
 こちらは前科持ちの身分だけに、ただの大学生の彼女と普通に考えれば接点など何もないはずで
あり、そう言った人間との関わり合いというものは、彼女の側から見るなら世間的に見てやはりあ
まり外聞のいい話とは言い難いだろう。
 そう考えて彼女からの再三再四の『お礼』の申し出もすべて拒否してきたというのに、あまりの
粘りと頑張りと、要するに絶対になにがあろうとも諦めない根性の前に、ついには秋山に自らが折
れるしか状況を打開する方法はないのだと思い至らせたのだから、恐れ入るというものだ。
 世間体といったようなものに頓着しそうもない彼女に、その自覚があることは多分に期待薄であ
ったが、秋山自身は少なくとも接点は出来るだけ少ない方がいいだろうとそう判断していた。
 それが一般常識的に見て、至極当然のものだとも。
 彼と彼女が関わりを持つ原因となった異様な趣旨をもって開催されたゲームのような、彼女一人
では到底解決出来ないような問題が生じたのならば力を貸すことも今さら厭うつもりはないが、そ
うでない日常に関わり合うつもりなど欠片もなかった。
 それは偽らざる本音だ。
 事実、彼女がニ回戦をなんとか賞金を手にしかつ借金を背負うことなく負け抜けするという形で
の結末を得た後、掛ってきた電話は一切、すべて、無視しした。
 今考えて見れば、その結果として抜けたはずのゲームに彼女は舞い戻ってしまったのだから、そ
れは消極的かつ愚行に近い行動だったのだが、とにかく秋山としては一端あの時点で自分と彼女の
関係にはけりがついた、そのつもりだった。
 だのに、あくまでも、だった、と言わざるを得ないこの状況を果たしてどう理解すべきなのか。
(止みそうもねぇな、この雨は)
 事件を起こす前に、まだ普通のどこにでもいるような学生の一人として通用していた頃は、あま
り人付き合いは得意ではなかったものの、現在の状態に比べれば一般的な人間とそう変わらないだ
けの社会性を持っていたが、流石に前科者となり実刑を喰らって数年の服役を経て出所してきた今
の秋山は、はっきり言って殆ど他人との交流を持っていない。
 彼の置かれた状況を鑑みればそうそう安易にそうした交流を持てるような状況も作り難いのは間
違いなかったが、それ以上に彼自身がそれを望んでいなかったからだ。
 母親の死後に得てしまった薄暗い闇の願望を叶えることに人生のすべてが終始することになった
後は、他人との付き合いなど目的を達成するために必要なものでなければまるで意味のないものに
成り果てた。
 他人に対して秋山が用意した物差しは、自分の目的を達成するために必要か不必要か、ただそれ
だけだった。
 辛うじて、母親が他人の欲望を満たすために騙され利用された挙げ句に最期を迎えてしまったと
言う事実が彼に、他者を己のために利用する、という手段を取らせなかったが、結局のところ、他
人とはあくまでも『他』という存在でしかない。
 正直な事を言えば、もしもあの時、出所した直後に神崎直という地上稀に見る人間と遭遇してい
なかったのなら、恐らくそうした状態は今も続いていただろうし、将来も変わることはなかっただ
ろうと秋山は思っていたし、確信すらしてもいた。
 それは明確な未来図であったのかもしれない。
 いや、そもそも秋山には未来というものへの、何某かの感情も希望も勿論だか夢などもなかった
のだ。
 母の死によって閉ざされた世界に、明日というものは存在しなかった。
 繰り返される過去だけがそこにはあって、秋山の世界はそこで完結してしまっていた。
 それなのに、開かぬはずの扉を押し開けて飛び込んで来たのは、呆れるほどの馬鹿正直でお人好
しで、おまけに単純で妙なところで常識を知らない若いまだ子供と言っても構わないような、カン
ザキナオ、という名前の人間。
 助けるつもりなどサラサラなかった。
 他人に関わるなど、御免被るとんでもない話だと、そう思っていたはずなのだが。
 結局、秋山は自分を頼って必死に訴え縋ってきた彼女を見捨てられなかった。
 それが彼の人間性の若さと呼ぶものなのか、甘さだと呼ばれるものなのか、それは当人にも分か
らないものだったろう。
 ただ一つ、確かなことは、彼女のどこまでも人を疑うことをしない真正直な姿に、突然目の前か
ら消えてしまった人の姿が重なっていたこと。
 秋山にとってそれは、止まっていた時間を突き動かすほどの力があった。
 己のために失った人は、もう救うことは出来ない。
 あの時こうしていればよかったと、いくら悔いてみたところで終わってしまった過去はどうしよ
うもない事実となって目の前に転がっているだけだ。
 でも、と思った。
 自分に助けを求めた少女のことならば、まだ間に合うのではないか。
 そして今の自分ならばそれを叶えるだけの力を持っているのではないか。
 丸一日以上、自分の言葉を鵜呑みにしひらすら戻ってくることを信じて、あんないつどんな輩が
あくどい目的で寄ってきてもなんの不思議もない場所に立ち続けた姿を見て、それが最後の決定打
となったのかもしれない。
 放っておくのは、簡単だ。
 いずれ諦めて立ち去るか、あるいは、誰かの欲望の餌食となってあの場所から消え去るか、その
どちらの結果となっても、それは彼女の問題であって自分にはなんの関係もないことと、切って捨
てるだけの冷徹さも秋山にはなかったわけではないだろう。
 けれど、結局は。
(約束を延期しただけだってのに、泣きそうな声出してたな………ほんと、よく泣くよ)
 ―――――― 困ったことに。
 秋山は煙草を取り出して咥えると、雨に煙る風景から室内へと視線を戻した。
 ―――――― 本当に困ったことなのだが。
 時計の針を見れば、昼にはまだもう少しといった時刻を示している。
(あいつ、相当落ち込んでんだろうな)
 電話を切った後に、がくりと項垂れて雨に文句を言いながら、冷蔵庫を眺めてしょんぼりとして
いる姿が鮮明に脳裏に浮かんでしまった。 
 困ったことに、秋山にはその冷蔵庫の中になにが入っているのかまでは想像は出来なかったが、
ただ、中が妙に多くの食材で埋まっていそうな予測が出来てしまうのだ。
 一ヶ月弱の藤沢を監視するために行っていた半同棲のような共同生活の中で、彼女の買い物をす
る際の癖を秋山は困ったことに、覚えてしまっていた。
 これ、秋山さん好きかなと思って。
 そう言って、二人で食べるにしても量が多すぎるのでは、と思うような荷物を抱えて帰って来た
姿を何度も目にしていれば誰だって嫌でも覚えるだろう、と胸中で呟く。
「………………ったく、仕方ねーな」
 点けたばかりの煙草を揉み消して、秋山はすっと前動作もなしに立ち上がった。
 そして壁に引っ掛けてあった上着を掴むと、携帯に時計、財布という最低限のものを身につけ、
玄関へ。
 傘を手に取り、外に出ればさっきよりもはっきりと雨の音が聞こえてくる。
 アパートに隣接する家の庭先にあるトタン屋根の物置が、バタバタとやたらに大きな音を立て
ているものだから余計に雨の勢いが強く感じられるが、実際にはそれほどの大雨と言うわけでは
なさそうだった。
 幸いにも風もない。
 まあ、これくらいなら。
(俺も、案外と、物好きだな)
 鍵を掛け、ポケットにそれを押し込むと秋山は湿ったコンクリートを踏みしめて階段に足を向
ける。
 ばさり、と傘を開いてそのまま階段を降り道路に出れば、駅まで続く道はやけに車の量が多く
ヘッドライトやテールランプが灰色の世界に色を添えていた。
 目の前に広がる風景に一つ、溜息を落として。
 秋山は駅へと向かうべく歩き出したのだった。




 
                                   -To be continued-


前回の雨模様晩餐会とは、随分毛色が違う展開になっておりますが、
元々これは軽いギャグにするか、ちょっと真面目な方向にするか、
選択肢が二つあったのです。
で、結局真面目な方向性に走ってみました。
こういう文章ずらずら書くのが、好きだったりします。
全然直ちゃんいないし。独白だし。すみません。
タイトルの「明日の淵瀬」とは、明日にはどう変わるか分からない。
将来の成り行きが分からない、といった状態を示す言葉です。
で、なんてゆーか、続きます(笑)