■ronzio
気がつくと、彼女はよく歌を口ずさんでいた。
多分、本人はまったく無意識のものなのだろう。
それは彼女が時々見ている音楽番組で歌われる歌のサビの部分であったり、テレビから何度も流
れてくるCMソングだったり、あるいは子供の頃に聞きかじったものであったりオリジナルの即興
のものだったりと種類豊富だったが、その区別が秋山には心許なかった。
中には判断のつかない曲も多い。
なにしろ彼には純粋に視聴するための音楽に対する関心は薄く、自主的な意図を持って音楽を耳
にすることが殆どないのだ。
直が見ているテレビを見るともなしに横で付き合っているときに、耳が勝手に覚えているから多
少の知識があるだけで、彼の年齢層の平均的な知識レベルには到達していないに違いない。
だから、秋山の歌という概念は、近頃すかり彼の傍で歌を口ずさむ直の歌になりつつあった。
上手いか下手かといえば、およそ中庸というのが正し評価だろう。
音を外すようなことはなく、リズムが狂うこともなく、綺麗に音を繋いで拾い上げていく。
けれど上手い、と手放しに万人が認めるレベルかといえば、それはどうだろうか。
多くの人間は大概そういったライン上にいるのだろうと、秋山は思っている。
そしてその範疇で改めて直の歌を評価するなら、十分過ぎるほど上手だと言えるものだった。
少なくとも、秋山はその歌声を好んでいる。
それが恋する者特有の分厚いフィルターによって変換されてしまった情動だと言われれば、それ
を秋山は否定するつもりなどない。
そもそも人の判断基準は、評価対象へ向けられた好悪感情が大きく影響することは必然のもので
あって、それなくしてまったくの平等なる結論を導き出すためには対象者との如何なる形であろう
とも関係性があってはならないことを、彼はよく知っていた。
だから、自分が直の歌を上手いと思い、また好ましいものだと感じるその理由に、彼女との特別
の関係が影響しているとしても、それはむしろ至極当然の結果に過ぎないのだと、ばっさり言って
退けるに違いない。
ともあれ、小難しい理論をあれこれと弄したところで、結論は一つだった。
秋山にとって、直が歌う歌はみな、好ましいものであるということ。
流石に、料理を作りながら、「にんじんさん、にんじんさん、美味しくなって下さいね♪」など
と歌っている姿を目にした時は、うっかりと失笑してしまわないようにかなりの苦労を強いられた
ものだが、そうした姿も愛らしいと思うのだから、仕方がない。
本当に、仕方がないのだ。
「それでこの前、カラオケに行かないかって誘われたんですけど」
「行ったの?」
「いえ、その時は時間がなくて。また今度ね、って言われたんですけど、私得意な歌とかなくて、
多分行っても、皆つまらないんじゃないかなと思うんですよ」
カラオケとは、そもそも他人に聞かせるというよりも、自分が歌いたい歌を好き放題に熱唱する
ことに重きを置いていて、多分に自己満足的充足感を得ることが最終的な目的の場所だと秋山は認
識していたので、直のそうした心配はある意味で的外れな心配である気もするのだが、それは言わ
ずにおいた。
世間一般がどう思い、どんな風に見ていようと、彼女にとってそうであるのなら、他がどうだろ
うと別問題だろう。
「秋山さん、カラオケとかって、行ったことありますか?」
「いや、ないね」
秋山の記憶の中に、そうしたものの存在はない。
高校生の頃にクラスの連中が話題にしていたことは耳にしていたが、母子家庭であり母が苦労を
していることを身に染みて知っていた秋山は、学校以外の金のかかる娯楽に興じるような気持ちに
はなれず行ったことはなかった。
大学に入ってからも同じだ。
寧ろ、その頃から目に見えて疲れを見せだした母のために、バイトをして少しでも家計を助けら
れたらと考え、母には内緒で大学の講義を受ける傍ら仕事をしていた秋山に、金銭面はともかくと
してそんな時間的余裕があろうはずもない。
そして、それから先は。
「君はどうなの」
「私ですか? 実は、ないんです」
高校生の頃から父に代わって家事を行うようになって、そして高校二年生の夏を過ぎた頃だった
だろうか、その父が倒れてからは、いっそうのことそんな娯楽は彼女の周りから遠ざかった。
そのあたりの経緯はなんとなく察せたのだろう。
秋山はそれ以上深く訊ねることはせずに、話を戻した。
「じゃあ、初のカラオケになるわけだ」
「いえあの、それで、ちょっとお願いが」
「お願い?」
「はい」
居住まいを正して、こくり、と頷いてみせた直に、なにを言い出すんだろうな、と秋山は彼女が
今日は最高の出来です、と言っただけのことはある絶品のビシソワーズを口に運びながら、目だけ
で先を促す。
「あのですね、みんなの前で失敗とかしちゃったら恥ずかしいので………一緒にカラオケに行きま
んか、秋山さん!」
ぐ、と運悪く飲み込みかけていたスープが食道ではなく気管に入りそうになるのを、秋山はなん
とか凌いだ。
そして、数秒の後にコホ、と小さく咳払いをしてから改めて直へと視線を投げる。
「カラオケ?」
「はい」
「俺が?」
「はい。秋山さんも行ったことがないんですよね? なら一緒に初体験しましょう! 初めてだと
ちょっと途惑っちゃうかもしれないですけど、慣れちゃえば全然平気らしいですよ!」
ゲフンゲフン、と今度こそ秋山はいつにない動揺を露わに咳き込んでしまった。
他意のないことは十二分に分かっている。
それこそ分かりすぎるほど分かっているのだけれども、どうなのだろうか、今のは。
「秋山さんの声って素敵だから、きっと歌ったら恰好いいと思うんですよね」
「………………」
「それに私、秋山さんが歌ってるの、聞いたことありません。よく考えてみたら」
当然だろうな、と秋山は思う。
前述の通り、彼の音楽に対する興味や関心は非常に希薄だ。
よって、直のように無意識であれ鼻歌だろうとも口ずさむようなことはまったくない。
意図的に歌ったこともない。
然るに、直が秋山の歌声を耳にしたことがないというのは、当たり前の話だった。
「ね、行きましょう、秋山さん!」
「まあ、そのうちな」
「約束ですからね!」
この勢いでは色よい返事をもらえるまで、なにが何でも粘りそうだな、と判断した秋山は当たり障
りのない返事を返しつつ、大根おろしの掛った和風ハンバーグを箸で半分に割る。
自分が音痴かどうかについては自分では分からないが、少なくとも音感は悪い方ではないと思う秋
山だったが、なんとなく選曲にジェネレーションギャップを感じてしまうことになりそうで、笑えな
いものがある。
だがそれより何より恐ろしいものは、直がそのカラオケに味を占めてしまった場合だ。
秋山と二人だけで行くのであれば歌にはそれほど興味がなくとも、直の歌が聞けると言う点におい
ては、秋山としても楽しめる話だろう。
けれども、それが友達なども一緒の場所に連れ出されることに繋がったとしたら。
なくはない、在り得ないとは言い切れない話に秋山はとりあえずハンバーグを口に運ぶことで己に
冷静さを取り戻させようとした。
もちろん、そんなことを切り出されても、秋山には応じるつもりはない。
ないのだが、もし、それが他の大学の連中も交えてのカラオケ大会、と銘打った早い話が合コンと
いうもので、どこぞの男たちが紛れ込むとなったら、さてどうする。
直は、きっと素直にカラオケ大会、と頭から信じきって出かけていくのであろうし、その場に見知
らぬ男が現れて紹介されたのならこれまた素直に、この人たちもカラオケを楽しみにきたんだな、と
思うことだろう。
そこに警戒心を挟めと言ったところで、果たして彼女にそれが通じるかどうか。
「楽しみです。秋山さんの歌」
うふふ、と嬉しそうな笑みを惜しげもなく振る舞いながら、直も自分のハンバーグにフォークを入
れる。
「これも今日はよく出来たと思うんですけど、どうですか?」
「うん、美味しい」
「よかったー!」
さらに笑顔が華やぐ直に、秋山は軽い頭痛を覚えてしまった。
きっと彼女は、周囲の男たちがそれをどう受け止めるかなど少しも考えることなく見せるのであろ
うと、架空のカラオケ大会なる合コンを想像してどうにもこうにもならなくなる。
カラオケなんて行くな、などと、どこぞの頑固者の父親のようは発言をしないようにする自制心だ
けは辛うじて働いてくれた。
が、同時に秋山は非常に楽しくない上に自分にとってはひたすらダメージの大きい選択を、その時
がもし来たのならするしかないだろう未来が見えるのは気のせいではあるまい。
だって、この真正直なお子様を、そんな場所に一人で行かせるなんて。
「秋山さん、御飯お代わりいりますか?」
恐ろしくて出来ません、と胸の内で呟いて、空の茶碗を直に差しだし、溜息一つ。
とりあえず深みに嵌りそうな過程の未来については考えないことにして、まずは自分が音痴ではな
いことを願いながら、秋山は自分でも笑えるくらい真剣に、思った。
この世界からカラオケボックスなんてなくなればいい、と。
-end-
雨模様晩餐会がちと重かったので、軽めに(笑)
私は実は、あまりカラオケボックスのお世話になったことがありません。
単純にそういう機会に遭遇しなかったこともありますが、私の歌える歌がカラオケには
殆どないっていう事実が痛くて(笑)
自分でピアノ弾きながら歌う、というご近所迷惑をしておりました。
といっても、ピアノをやっていたのは大学生までで、今だとまともに引ける曲は
猫ふんじゃったあたりがいい所かなーの有様です(笑)
カラオケに行っても、なにせ流行の歌ってものがサビしか歌えず、
フルコーラスで歌えるのはどうにもこうにも
マイナーというか、同人やってる者の間ではものすごくメジャーな人たちの歌という事実。
あとは、中島みゆきはよほど最近のものでなければ、ほぼすべていけます。
直ちゃんはなんとなく、歌がそこそこ上手そうな気がします。
秋山氏は………ええと………すごく上手いか、すごく下手かどっちかかなと。
すごく上手かった場合、秋山の歌声を他人に聞かせるのが勿体無い、と思った直ちゃんが
無意識にその可愛い我儘を発揮してくれて、秋山氏のカラオケに連れ出される想定の怖い
未来はやって来ない、という展開を、私的にはプッシュです。
タイトルの「ronzio」はイタリア語でハミングのことです。てか、素直にhummingにすれば
いいじゃん、ってのは言いっこなしで(笑)