■チェックメイトの方程式 中編



 うつらうつらと、浮かんでは沈むような意識は曖昧だったが完全な眠りに落ちることもない。
 もう随分と長いこと、風邪なんて引いていなかったから。
 熱が出たらどうなるのか、その感覚も忘れていた。
 そうか、風邪で熱が出るというのは、こういうものだったか。
 布団の中で秋山は、ぼんやりと思い返す。





「秋山さん、気分はどうですか? お薬飲めますか?」
 結局、出所してから一度も病院の戸を叩いたことのなかった秋山には掛りつけの病院などあるは
ずもなく、彼は直が普段から世話になっている町医者に連れて行かれた。
 そこはいかにも地元に根付いた小さな病院であったが、直が小さい頃から世話になっているとい
う初老の医師は人当たりの良い、直に似つかわしい感じを受ける人物だった。
「風邪だね。今時分は季節の変わり目で気候も不安定だから、体調を崩しやすいんだが、どうやら
君は過労も原因の一つになっているね。とにかく十分な睡眠とたっぷりの栄養を取ることだ」
 医師は一通りの診察を終えた後、カルテになにやら書き込みながらそう言って、秋山を見た。
 だがその言葉を聞いて衝撃を受けたのは秋山ではなく、彼の後ろに立って一緒に診察結果を聞い
ていた直の方だったのは言うまでもないことか。
「無理をしているようだから、少し身体を休めてあげなさい。それが無理なら、せめて風邪が治る
まではゆっくり休息を取って、そのあとは、定期的に身体を休ませて上げるようにした方がいい」
 そう言われて、秋山は一応その場では素直に頷いてみせた。
 しかし、実際にその通りに出来るとうい保証はない。
 と言うよりも、殆ど無理だと言えただろう。
 秋山は刑期を終えて出所してからまだ半年かそこらの身分であり、日々の生活に追われて貯蓄に
まで回る金は少なく、必然的に働かなければ死ぬだけだ。
 これは比喩や例えなどではなく、紛うことなき本当の話だった。
 実に笑えない話ではあったが。
 勿論、秋山に金銭的な生活設計や未来構想が作れないわけがなく、寧ろ他人がみたら何もそこま
で、と思うようなものを構築してみせるであろうことは、彼がライアーゲームの最中にみせたその
頭脳や巨大なマルチを相手に回して単身で勝負を挑み勝利してみせた経歴からしても、疑うべくも
ないことだった。
 しかし、困ったことに、いや、当人は少しも困っていなかったのだが、こんなときには少々問題
になるかもしれないものが、秋山にはあった。
 それは将来に対しての明確な願望が備わっていないための、言葉を悪くして言えばその日暮らし
的な思考回路の存在だ。
 そしてさらに悪いことに、秋山にはその自覚がしっかりとあることだろう。
 彼には厭世観があるというわけでもなかったし、色々あったもののペシミストとうわけでもなか
ったが、だからと言って将来や未来について何かの期待を持っているというわけでもない。
 過去は過ぎ去った記憶の重積でけして下ろすことは出来ない生涯背負い続けるものであり、未来
とは永遠に巡ってこない不確定の明日を示し、常に今日、ただそれだけが目の前に存在するもので
あって、今の秋山にとってその上を歩いて行くことが生きるということだった。
 だから、秋山に仕事を休んで身体を休めろ、と言うのは難しい相談なのだ。
 前科者にまっとうな仕事は早々巡ってこない。
 ましてや世間を相当に騒がせた詐欺師ともなると、雇う側もそれなりに警戒するだろう。
 小さな会社や工場ではそれほど問題にはならないかもしれないが、けして景気が良いとは言えな
い昨今、そうした職場の求人需要はけして高くない。
 即戦力として求められるのはそれなりの技量を持つ者が優先され、生憎と事務職的にも技術職的
にも秋山にはそれに応じられるものがなかった。
 心理学を修めた彼のプロフィールは、一般的な企業においてはあまり意味を成さないのだ。
 結局最終的に辿り着くものは、その身体を使って金を稼ぐというもの。
 要は建築関係の下請け会社で、工事現場において文字通り労働力を金に換えると言うシンプルな
手段だ。
 つまるところ、結論から言えば、働かないことはイコール、即座に入ってくる金が途絶えるとい
う現実が待っている、という話。
(まあ、体調が戻るまでは仕方ないか)
 幸いと、それくらいの間ならば生活することは可能だろう。
 なにも今日明日ですぐに干乾びるほどの無計画性な生活をしてるわけでは、流石にないのだ。
 誰とも関わらずに、独りで生きていたのならばそうであったかもしれないが。
「秋山さん?」
「ああ、悪い………」
 熱のせいだろうか、普段は考えないようなことを考えていた、というよりも考えが四散している
ために、外部からの刺激が脳に到達するのに時間がいつもの倍以上掛る。
 それでも秋山は、二度目の呼びかけに対しては反応を返した。
 なによりその不安そうな表情を目にしてしまうと、弱っているのは間違いなく彼の方であるのに
も関わらず彼女の方が頼りなく見えてしまうのだがら、まこと人間の心理とは奥が深い。
「薬、だったっけ」
「はい、そろそろ時間なんですけど、でも、何かお腹に入れてからじゃないと、と思って、あの、
おじや作ってみたんですけど、食べられそうですか? 秋山さんお昼から全然なにも食べてないし
ちょっとでもいいから、食べた方がいいんですけど」
 そうだな、と秋山も思う。
 少なくとも頭ではそう思うのだが、なにしろ身体がそれに対応しない。 
 食欲などまったくなく、頭は重いし腕も足も自分のものとは思えないほどだるくて、少し動くこ
とさえも億劫でたまらないのだ。
 こういうものだったか、風邪を引くってことは。
 秋山は遠い記憶を探ってみたが、自分が最後に風邪をひいたのがいつだったかを思い出せない。
「………食べるよ。体力つけないとやばいしな」
「はい、そうですよね、わかりました!」
 秋山の返事を聞いた途端に明らかにホッとした様子を見せて、直はすぐ持ってきますから、とパ
タパタとキッチンへ消えていった。
 ふ、とその背中を見送りながら秋山は息を吐いた。
 いつにない熱い吐息は、熱の高さを窺わせる。
 本当のことを言えば、まったく食欲などなかった。
 胃の中は間違いなく空っぽだったが空腹感よりも倦怠感の方が強く、ものを口に入れて咀嚼し、
それを飲み込むというただそれだけの過程さえ、ただただ、面倒でしかたなかった。
 けれど。
 不安そうに、まるでこのまま死んでしまうんじゃないかと思っているのだろうことが、一目で分
かるような顔をした直を見てしまうと、いらない、とは言えなかった。
 秋山の、理性的かつ現実的に物事を考える思考も今は少しでも体力を得るために何か食べるべき
である、と判断を下したこともあるが、それを放棄することも有り得るほどの体調不良な状態にあ
った彼が最終的に食べることを選択した理由は、そうしたものとは一切無縁の、ただただ、自分を
ひたすら心配している彼女を、少しでも楽にさせてあげたい、という思いから発露したものだ。
 笑おうとして、笑えなかった。
 自分は随分と変わったと秋山は思う。
 直と出会ったばかりの頃には、こんな情動の働き方は絶対になかった。
 他人の事情や都合を考えて、自分の行動に反映させるなど。
 それも意図したものではなく、完全に感情が優先された形でなどと。
「お待たせしました! 卵のおじやなんですよ。栄養つけなきゃって先生が言ってたから入れてみ
ました!」
「………ありがとう」
「いいですよ、お礼なんて! ちゃんと秋山さんが元気になったら返してもらいますから!」
 自分も変わったが、彼女も変わったな、と秋山はふと思った。
 少し震えながら自分に頼ってきたばかりの頃には、こんな言葉はけっして出てこなかった筈だ。
 冗談めかして秋山に余計な気を遣わせないようにする、それだけのことだが、少し前の直であっ
たのなら、秋山に対してどこか一歩引いたところに立っていた彼女はいつも二言目にはスミマセン
といって畏まってしまっていたと言うのに。
「起きられますか?」
「ああ、なんとかね」
 重い頭をどうにか宥めすかして、秋山はゆっくりと上半身を起こした。
 直は素早く枕を立てて背中に当てるようにし、少しでも楽な体勢がとれるようにと秋山に手を添
えて動くのを助ける。
「………ふ………」
「大丈夫、ですか?」
「まあ、大丈夫とは言い難いけどね………驚いたよ。こんな風になるのは久しぶりだから」
「秋山さん、健康だったんですね! 私なんて、しょっちゅう風邪引いてましたよ」
 だからちょっとくらいの熱なんて全然平気なんですけど、と言って、直はすっと秋山の額にその
小さな白い手を当てた。
「秋山さん平熱も低いから、身体辛いですよね」
「熱は身体が風邪と戦ってる証拠だから、まあ、仕方ないさ」
「早く下がるといいんですけど………あ、お水飲みますか?」
 差し出されたコップを受け取り、秋山はそれを口に運んだ。
 だが水が入っているだけで、別に鉛か何かが付いているわけではないのだが、腕が震えて上手く
動かない。
 それに気付いた直が、そっと手を添えて助け舟を出してくれた。
「悪いね」
「いえ、でも、コップ持つのも辛いんですね」
 半分ほどに中身の減ったコップをベッド脇に置いた小さなテーブルに乗せ、直は眉を寄せて難し
い顔をしてみせる。
 秋山の体調が思った以上に回復していないことに、どうやら不安を覚えているらしい。
 しかし、そこで自分がこんな顔をしていたら秋山さんに心配かけちゃう、と思ったのだろう彼女
の表情はすぐに柔らかいものを象る。
「食べられそうですか?」
「ああ」
 少し身体の位置を直して、秋山はそう返事をすると直がおじやの入った器を手渡してくれるのを
待った。
 だが、待てど暮らせどそれは直から渡されることなく、その代わりに。
「はい、どうぞ」
「………………って、なに」
「秋山さん、コップだって持つの辛いんですよね。だから、これ食べるのだって大変ですよ。今は
余計な体力使わない方がいいんですから、はい、どうぞ!」
 どうぞ、と言われて。
 秋山は見事なくらいに固まった。
 どこぞの雪祭りを盛り上げている雪像の如く、完全にフリーズしていた。
 身体も、そして頭の中も。
 これでもとっくに二十代後半で、相手はまだ未成年で。
 その自分の前には温かな湯気を立ち上らせたおじやが乗った、白い陶器の蓮華。
 どうしろと言うのだ。
 秋山は固まってしまった頭の中で、それでも必死に考えた。
 まったくの善意だ。
 彼女の心根からすれば、純粋に秋山に負担をかけまいとして、そこから様々な思いを巡らせて、
最終的に到達して着陸したのは、そこだったとういだけのこと。
 しかしその善意を全面的に受け入れるには、秋山は些か理性や理論や常識といったものが先に立
ってしまう。
 もっと言ってしまえば、恥ずかしさがとにかくまず生じるのだ。
 それはそうだろう。 
 いい年をした男がいくら風邪をひいているからといって、他人に食べさせてもらうという状況を
受け入れろという方が無理難題だろう、と訴えてみても。
 彼の訴えを聞いてくれる者は生憎とこの場には誰一人として存在せず、そして目の前にはどうし
たんですか、冷めちゃいますよ、と目で訴えてくる女の子。
 自分で食べるからいいよ、と言ってみたところで、きっと彼女はそれを受け入れない。
 コップも持てないのに無理しないで下さい、とピシャリと言い放つに違いないのだ。
 この辺りも彼女の成長の証であり、二人の関係の進捗度を示すものでもあっただろうが、今の秋
山にはそれは喜べないものだったろう。
 けれど、どれほど足掻いてみても。
「熱くないですか? 味、薄くないですか?」
「平気………味も丁度いいよ」
「よかった!」
 彼女のやりたいようにさせてやるしかないのだと諦めるしかなかった秋山は、ほんのりと、まる
で作った本人のように優しいおじやを咀嚼しながら、直には知れないように小さく溜息を落とす。
 風邪をひくってのは、こんなに疲れるものだったろうか、と思いながら。





 
                                   -To be continued-

すみません、続きます。次で終わります。
ここまで書いて、前編と同じだけのバイト数になっちゃったんですよ………(汗)
流石にこれは………と思いまして、三ついぶった切ることにしました。
誰か私に短く話をまとめる方法を教えて下さい。
 
今回の話の前半部分とかって、なくても全然構わない文章なんだよなあ、と自己反省。
でも、すみません。好きなんですよ、こういうことグダグダ書くのが!

いや、開き直ってどうする。