■チェックメイトの方程式 後編
ちらりと時計を見てみれば、時刻は夜と呼ばれるものへと移り変わろうとしている頃。
秋山は窓の外へと視線を投げて、暮れなずみかけた景色に眉を潜めた。
「そろそろ、帰りな」
「え?」
「もう十分だからさ。あとは一人でなんとかなるから、君は自分の家に帰った方がいい。まだ今
なら明るいから」
危なくないだろ、と続くはずだった台詞は、ばっさりと切って捨てられた。
「ダメですよ」
至極真面目な、そして酷く心配そうな、加えて言うのなら非常に怒っているような顔をした相
手によって。
「何言ってるんですか、秋山さん。熱は少し下がったけどまだ高いし、思うように身体だって動
かせてないじゃないですか。そんな秋山さんを一人にして私が帰れるわけないでしょう」
「いや、本当に大丈夫だからさ」
「ダメです!」
こうと決めたときの、直の頑固さはかなりのものがある。
それは秋山もよくよく知っていた。
他人がどう思おうとも、自分の信念や意地は絶対に譲らない。
それが彼女のよくも悪くも、彼女らしさであった。
しかし、やはり秋山としても諾としてそれを受け入れるわけにもいかない事情があるわけで、
熱ですっかり普段の切れ味がなくなってはいるものの、その頭脳をフル回転させてなんとか直を
帰宅させようと言葉を捜す。
「君は明日、大学だろ」
「一日くらい休んでも大丈夫です。私これでも真面目に講義には出てますから!」
そうだろう、正直者の彼女が代返などと言うものを利用したり、人のノートを借りてコピーを
取ったりする姿はまったく想像できない。
(いや、そうじゃなくて)
「講義をサボっていいのか? カンザキナオさん」
「サボりじゃありません! 秋山さんを看病するっていう立派な理由があります!」
そんなものを理由にしてくれなくていいよ、と思いながら、秋山は風邪の諸症状ということ以
外の原因により感じる頭痛を堪えながら、なんとか更に言葉を重ねた。
「だいたい、君もそれなりの年齢の女性なんだから、男の部屋に気安く泊まるなんてことは、し
ない方がいい。世間体ってものを考えな」
「何言ってるんですか、秋山さん。私、ライアーゲームの一回戦の時に、秋山さんと同じ部屋で寝
起きしてたじゃないですか」
「………………あれは、事情が違うだろ」
「違いませんよ。同じじゃないですか」
直の主張は、至って正論であった。
確かにあの一回戦では、藤沢を見張るために借りた家で半月以上を半ば同棲状態で過ごしていた
ことに間違いはない。
緊急事態だったから、それはその通りだが、だからと言って一緒に生活していた、という事実もま
た覆らないのだ。
秋山は、重い頭をそれでも今一度巡らせた。
直がなんと言おうと、この部屋に泊まらせるわけにはいかない。
若い娘がそんなことをして、誰かの目に止まりよからぬ噂でも流れようものなら、結局傷つくのは
秋山ではなく、直の方なのだから。
「ベッドも布団も、今俺が使ってるこれしかない。君が寝る場所なんてないぞ」
「平気です! 今夜は秋山さんの看病するって決めてますから、寝る必要なんてありません」
「いや、全然平気じゃないだろ、それ」
どこがどういう風に平気なのか、それを教えてくれ、と言ってやりたかったのだ、秋山も。
けれど、そこが限界だった。
まだかなりの熱のある頭はとっくに思考をすることを放棄していたし、火照った身体は少しでも早
く休息を求めていたし、とにもかくにも、全身まるごと、秋山は疲れ果てていた。
久しく熱を出したことのない人間が高熱を出すと、その反動は予想以上に大きいものだ。
そんなものとは無縁だった細胞たちが悲鳴を上げてしまったかのように、自分の意思というものが
まるで反映されなくなる。
秋山は今まさに、そんな状態だった。
ただでさえ、日ごろの肉体労働で疲れていたところに風邪というカウンターを喰らい、その上で直
との一段掛け間違えたとしか思えないような会話を交わしたことで、とうとう限界がきてしまった秋
山の意識が、急速に集束していく。
「………も、いい………ちゃんと、風邪ひかないようにしろ………よ………」
言葉尻が曖昧になり、瞼が落ちれば。
「秋山さん?」
そっと声をかけてみても、返事はない。
直は十分注意をしながら秋山の顔に自分のそれを近づけて、様子を窺った。
なにしろ秋山は人を騙す天才だから、もしかしたら揶揄れているのかも、と思いつつも、もし眠り
に落ちているのならそれを邪魔してはいけない、とも思い、その両者から生まれたおっかなびっくり
の動き。
ぎりぎりの近さまで顔を寄せて、じいっと見つめる顔は瞼を伏せたままだ。
顔、やっぱりちょっといつもよりも赤いなあ、熱のせかしら、とそんなことをちらり、と考えた途
端に、はたと直は今の状況について正確に認識を持った。
殆どないにも等しい、この距離は。
「ひえぇぇえ」
今さらになって気付いてしまったものに、直は頓狂極まりない声を上げてしまってから、いけない
秋山さんを起こしてしまう、と慌てて両手で口を押さえ音を立てんばかりの勢いで身体をぐいっと後
ろに倒して秋山から離れた。
そのとき、ゴツン、と、勢い余って壁に頭をぶつけてしまったことは、秋山には内緒にしておかな
くちゃ、と口から頭に移動した手でぶつけた場所を押さえながら、そんなことを直は一人痛みに耐え
つつ思うのだった。
深夜を少し過ぎ、部屋の中はいっそう夜のしじまに吸い込まれるようにして静寂を深めていく。
普段は寝息をあまり立てない秋山が、小さく音を立てて眠る姿をずっと離れることなく傍らで見つ
めていた直は、ついと伸ばした手でその長い前髪を払うようにしながら、額に触れた。
(よかった、少し下がってる)
薬が効いてきたのか、表情も幾分か楽なものがあって、直はほっと胸を撫で下ろす。
どうやらこの分ならば、完全に復調するのにも時間はそうかからないかもしれない、と安堵する。
勿論、たかが風邪と侮って甘く見てはいけないことは、十分承知しているが。
窓に近寄りカーテンを少し開けて外を見れば、すっかりと藍色の帳が降りていた。
キラキラと耀く星の欠片が彩りを添えているが、どうやら今日は新月だったようで、いつもよりも
空の闇は深い。
とても、静かだった。
直は一つ息を吐いて、カーテンを元通りに閉めると秋山が眠るベッドの傍に戻る。
「秋山さんって、風邪引いて熱があっても秋山さんなんだもん、困りますよ」
ちょん、と軽く眠る頬を突いて、直はぺたりと床に座り込むとそのまま秋山の枕元に腕を置いて
そこに顎を乗せるようにして、寝顔を見つめた。
熱があると気付いたときには、本当に驚いた。
多分、朝からずっとあの状態だったはずなのに、秋山の態度は普段とまるで変わらず熱があるよ
うな気配を微塵も感じさせなかったのだから、本当に困ると直は思う。
「私が鈍感なのもあるんだろうけど………秋山さんって、倒れる寸前まで気付かなさそうでちょっ
と怖いですよ?」
ある意味で、直もまた自分の体調不良に気付かずに行動してしまうところがあるので、お互い様
ではないのかと言えなくもなかったが、直にしてみれば秋山の場合本当にギリギリ限界寸前まで平
然としていて、気付いたら手遅れでした、ということになりそうな気がしてならなかった。
「これからは、もっとちゃんとしっかり、秋山さんのこと見てなくちゃ」
秋山が自身で身体の不調に気付けないのなら、自分がそれに代わって気付いてあげればいいんだ
から、と直は一人頷く。
秋山に気をつけてくださいね、と言ってみたところで、あまりそれに効果はなさそうな気がする
のだ。
信じられないくらいに頭の回転が速くて賢い人なのに、そういうところは妙に無頓着で、困る。
直は知らず溜息を落としていた。
「それに栄養のあるもの、もっと秋山さん食べないとダメだと思うし。偏食って言うんじゃないけ
ど………だいたい、ちゃんと三食食べてるのかな。なんか昼とか、コンビニのお弁当で済ませちゃ
ってそう」
いや、お昼どころか朝昼晩、それでも不思議はない。
なにしろ秋山のアパートのキッチンは、直が使うようになるまで、殆ど使用された形跡がなかっ
たのだ。
「行きつけの定食屋さんがあるって言ってたけど………それも外食になっちゃうし」
秋山さんさえ迷惑じゃないのなら、時々御飯を作りに来てもいいんだけど、と呟いたところで、
ふああああ、と直の口から盛大な欠伸が飛び出した。
(いけないいけない、寝ちゃだめよ。秋山さんの看病するんだから)
そうは思う端から意識は滑り落ちていく。
だめだめ、ほら起きて、と自分で自分に言い聞かせてもそれも段々と遠い声となって。
パタリ、と。
眠る秋山の枕元に直の頭が落ちる。
すうすうと、聞こえてくるのは気持ちの良さそうな寝息の音。
零れ落ちてしまった意識はまどろみの中、ゆっくりと横たわる。
夜の静けさがまた一つ、深まっていくのだった。
だから、帰れって言ったんだ。
窓から差し込んできた光によって意識を浮上させた秋山が、まず最初に思ったのはそれだった。
なにしろ自分の看病をするんだから帰らない、と言っていたはずの人物が、それはもう気持ち
よさそうな寝顔を惜しげもなく披露して自分の隣で寝ていたら、そう思うのも当然か。
いつの間に潜り込んできたのか。
恐らく、眠るつもりはないがいつの間にか転寝をしてしまい、なんとなく肌寒くなったら目の
前に布団があったから、そこに寝惚けたままで潜り込んだ、大方そんなところだろう。
しかし、それにしたって無用心すぎやしないか。
頭を抑えて天井を見上げて嘆息。
それを言うだけ無駄なのだと、そんなことは重々承知しているのだが、やはり言わずにはおれ
ないのも人間と言うもの。
されど何を言ったところで相手が眠っているのでは意味がなく、ここはまず起きていただくし
かないわけで。
「おい」
声をかけてみるが、無反応。
身体を揺するくらいのことをしなければ、とても起きそうもないくらいに、熟睡している。
しかし、それを実行しようにもできない理由が秋山にはあった。
一つには、熱を出した後の身体が軽い倦怠感をいまだ持っていること。
そして今一つは。
「どこに、こんな力があるんだよ」
確かに今の自分には普段のような力を出すことはできないにしても、いくらがっしりとホール
ドされているとは言っても。
ただ今現在、秋山深一は、神崎直によって完全に見事に拘束されていた。
だからといって、このまま彼女の覚醒を待っていることなど、出来る相談ではない。
「………おい、こら、いい加減に起きろ!」
なんとか左腕だけをそこから脱出させると、コアラさながらに自分にしがみ付いている直の肩
を軽く掴んで揺すりながら声をかける。
三度目に、声をかけたときだった。
「………あれぇ? 秋山さん………?」
「やっと起きたのか? だったらとりあえず」
俺を解放してベッドから降りてくれ、と続く筈だったそれは、音を得る前に掻き消された。
「わあ、秋山さん、顔色よくなってますね! ええと、熱は………あ、まだちょっと高い気がしま
すけど、でも、下がってますよ! よかったですね!」
「ああ、うん、でもそれはいいから」
「えっと、でもまだお薬は飲んだ方がいいですよね。それにちゃんと熱も計らなきゃ。えーと、体
温計どこに置いたかな」
寝起きとは思えないような、テンションで直は一気呵成にそう言ってがばっと身体を起こす。
そして謀らずも、それまでがっしりと捕まえていた秋山の身体を解放し体温計探しの旅に出た。
状況がまったく見えていないらしい彼女の行動に、秋山が出来ることといえばただただ溜息。
「ありました! はい、秋山さん」
「………」
渡された体温計を無言で受け取り、熱を計るべく脇の下に入れたところで、秋山はどっと疲れを
感じて枕の上に頭を放り投げた。
その衝撃でやや頭痛がぶり返したような気もしたが、気にする気力はない。
「えーと、お薬の前に軽く何か食べないとですよね。あと、着替えた方がいいですよ、熱で汗かい
ると思いますから。ちょっと待っててくださいね」
言うが早いか、ぱたぱたと洗面所に小走りに向かって、すぐにまた戻ってくる。
「はい、着替えです! それと、梅干と卵と、どっちがいいですか? お粥」
「梅干」
「分かりました。あ、着替えるのは体温測り終わってからにして下さいね!」
普通に考えても、体温計を脇に挟んだままで着替えるのはかなりの高等芸のような気がするのだ
が、秋山は分かった、という代わりに一つ頷いて返す。
そこにピピピ、と計測終了を知らせる音。
「どうですか?」
「三十七度八分」
「まだちょっとありますね」
やっぱりお薬飲んで、今日もう一日しっかり休まなくちゃダメですよ、と言いながら振り返った
直はそこに見たものに慌ててまた背中を秋山に向けた。
パジャマ代わりのシャツを首から抜き取って、代わりのシャツの横に沿えてあったタオルで軽く
身体を拭いている秋山の姿がそこにあったからだ。
(………今さらだろ)
人の寝込みに押し入って、勝手に人を抱き枕の代わりにしてくれたのは誰だよ、と心の内で突っ
込んで、やはり溜息。
まだ熱は残っているものの、薬が効いたのかそれとも強引に看病を買って出た誰かのお陰だった
のか随分と楽になった身体をベッドの上に横たえることはせず、秋山はそのまま床に足をついてベ
ッドに越しかけた恰好を取り直の後姿を眺めた。
本当に不覚だった、と思う。
色々と、本当にもう色々と、だ。
「秋山さん、ダメですよ! 寝てなくちゃ!」
「もうだいぶ楽になってるから平気。それに、それ食べるなら横になったままじゃ無理だろ」
振り返った直が手にしているお盆を指差し秋山が言えば、それはそうですけど、と直はやや口調
に残念そうなものを孕んだ声を返した。
「昨日みたいに、食べさせてあげますよ?」
「大丈夫、自分で食べれる」
あれをもう一度やれと言われても、二度とはやりたくない。
直は大変嬉しそうだったが、秋山の心境は荒れ狂う大海原だったのだから。
しかし、どうにもこうにもなんだか昨日からずっと、直にしてやられている気がして、秋山はど
うにも面白くなかった。
ことの始まりは、チェスのゲーム。
直がチェックメイトを決められたのは、秋山が熱のために思考をまともに巡らせることが出来な
た故のミスによるものだったが、それでも負けは負けだ。
その後はひたすら、彼女の独壇場。
ここは一つ、やり返しておかなくては、かつては天才詐欺師といわれた男の立場がない。
というわけで、秋山は頭の中に昨日の最後のチェスの盤面を思い起こし、ミスを犯した一手を戻
して新たな一手を、決定的に盤面の状況を変える一手を打った。
「ところでさ」
「はい?」
「俺、もしかして、寒がったりとかした?」
「え? そんなことはなかったと思いますけど、でも、どうしてですか?」
きょとん、と不思議そうな顔をしている直に、秋山はあくまでも至極真面目な顔で続ける。
「いや、朝起きたら、君が俺の目の前にいたもんだから」
「目の前………」
反射的に鸚鵡返しに呟いた直の、その脳裏に今朝方の一連の出来事が今さらになってクルクルと
巡っているのだろうことを、秋山は顔色一つ変えずに見抜いて見守っていた。
見る見るうちに真っ赤に熟れていく、その顔にも、ただ、ニコリと笑ってみせるだけ。
「悪かったな。ありがと」
「え。あ、あええと、あの、あれは、あああああ、えええと」
日本語が話せなくなってしまったらしい直の慌てふためきっぷりは見事なもので、それを目にし
てようやく溜飲が下がった秋山は、いただきます、と直が運んできた梅干入りのお粥に匙を差し入
れる。
風邪をひいたのは思わぬ失態で、色々と嬉しからぬ出来事も多々あったけれども。
(まあ、このくらいで引き分けってことにしてやるよ)
二人仲良くチェックメイト。
たまにはそういうことがあってもいいんじゃないか。
向かい合った二つのキングが互いの手を取り合うような、普通にはとても在り得ないことでも。
(君ならやっても不思議じゃないし)
あああ、秋山さん、あのですね、とまだ呂律がたどたどしい直に、秋山は苦笑をしながらふと思
った。
出来ればあまり経験したくはないのだけれども。
(当分は御免被るけど)
たまには風邪をひいてみるのも、悪いもんじゃないかもな、と。
それはもう随分と長いこと。
そんな状態に陥ったことがなかったので。
すっかりと忘れていた。
例えば、そんなときにはどうやって過ごしていたのかさえも。
でも今はこうして、こんな風に。
-End-
はい、終わりました(笑)
風邪っぴき秋山さん、体調が戻って来たらいつもの感じになりましたとさ。
ドラマの秋山イメージですね。Sっぽいところが強いのはドラマの方だと思うんですよ。
原作の秋山さんの場合、あんまりSな感じがしないというか、それが一つの演技のようで。
どちらかと言うと、S属性のくせに、直ちゃんに対しては決定的になりきれない
そんな秋山さんが好きかもしれません。
惚れた弱みって言うんですかね、それって(笑)