■盲亀の浮木 −雨模様晩餐会3−
扉を開けたその先に、秋山が立っていたのを見たとき、直は自分の目をまず疑った。
いきなり説教から始まったその登場の仕方がなんとも彼らしいなあ、と思ったものの、即座にど
うして此処に彼が立っているんだろうか、とそれをまず思わずにはいられなかったからだ。
雨が酷く降っているから。
お礼のご馳走をする、と言う約束は延期させて下さいと、そう電話したのは少し前のことだ。
秋山は確かに、電話口の向こうで「分かった」とそう言ったはずなのに、しかし今、本人が目の
前にいる現実は覆らない。
軽いパニックだった。
なにが起こったのかを処理する速度が間に合わず、得られた情報と手にしていた情報が錯綜して
なにがどうしてこの状況下に自分置かれているのかを、理解し損ねている自覚もあった。
その状態の直を救済したのは、他ならぬそうした状態に陥らせてくれた秋山自身だったのだから
それを笑っていいのかどうか。
とにかく、直は突然の思わぬ諦めていた人の来訪に、事態を飲み込むと同時に舞い上がった。
落ち込んでいただけに、その反動も凄かった。
自分でもちょっとこれは浮かれすぎだろう、と思う自分がいたのだけれども、嬉しいものは嬉し
いのだから仕方がない。
素直な性格はそのままに、直はにこにこと笑顔を絶やすことなく秋山を招き入れ、タオルを渡し
て彼の来訪を心から喜んだ。
昼食はまだだという彼のために、自分もまだだからと約束の夕食の前に、まずは昼食を振舞った
ときも、作っている間中笑みが溢れるのを止められなくて、困った。
(あんまりへらへらしてたら、秋山さん呆れるよね、いくらなんでも)
しゃきっとしなくちゃ、しゃきっと、と自分に活を入れて、手早く簡単なパスタを仕上げる。
そしてちょっと不安を覚えながらも秋山に饗したときは、心臓がいつになくどきどきと煩くて、
直はどうしちゃったんだろうと、自分で自分が不思議で仕方なかった。
手料理を、父以外の誰かに食べてもらうのは、これが初めてだったから、なのだろうか。
考えてみれば男の人とこんな風に過ごすことも、直はこれが初めてのことだった。
中学も高校も、女の友達とはしゃいで過ごすことで過ぎ去り、男の子とのお付き合いなど、直に
とってはまったく別世界の話のもので、彼氏持ちの友達の話を聞いたり、友達同士でまだ知らぬ恋
について語り合ったりはしても、それが限界でそれ以上の領域に足を踏み入れたことがない。
男に対しての免疫がないというよりも、それ以前の次元なのだ。
勿論男と女の性別論的な区分けの認識はあったし、場合によってはよからぬ欲望の対象として見
なされて生涯残る傷を受けるかもしれないという常識的な危機管理は備わっていたが、決定的に直
には足りないものがあった。
人を愚直なまでに信じるその心根から生じる、警戒心の薄さだ。
そうでなければ、殆ど互いに何も知らない赤の他人にも等しい男を、ほいほいと気安く一人暮ら
しの自宅に招き入れたりなどするまい。
それは危険認知度が低いと言うものとはまた別次元の、彼女の人の良さをそのまま反映してしま
ったもので、皮肉にもこの世の中に渦巻く彼女が信じる人間こそが生み出した世界が彼女のことを
裏切っているがゆえに生じるどうにもならない、温度差、二つの間に横たわる溝の深さだとも言え
たかもしれない。
もちろん、それ以外にも秋山に対して、彼もまた一人の男である、という現実の事実を飛び越え
て絶対的な信頼を直が寄せるようになったのには無理もないだけの条件が揃ってしまっていること
も、あっただろう。
直にとって、秋山はとにかくあらゆる意味で、特別だった。
天才的な詐欺師だと教えられて、出会ったときはやはり怖い印象もあったが、彼の見事な作戦に
よって彼女は窮地を救われ、あまつさえ彼の取り分であるはずのマネーを受け取ることなく返して
きたことに直は彼の中に潜む優しを知って、どれほど嬉しかったかしれない。
分かり難いけれど、優しくて、暖かい人だと、直はそう秋山に対して思っていた。
疑いもせずに。
正直者で騙されやすく、どうしようもないお人よしのお馬鹿さん、と言われることもしばしばあ
る彼女だったが、一つだけ彼女には誰にも負けない優れた力が備わっていた。
それは、人を信じられる強さだ。
これに秋山も負けたのだと、言っていいかもしれない。
ただ、それはある意味で欠点ともなり得た。
盲目的な信頼は、危険を孕む。
自身にも、そして向けられた相手にも。
それを秋山は知っている。
だから彼女の真正直さを疎んじる気持ちが彼の中になかったとは、言えないだろう。
けれど直は知らない。
その素直な心は、真っ直ぐに進む光のようにいつも偽ることを知らない。
だからこそ、秋山は疎んじながらも彼女のそうしたものを案じる気持ちを抱いてしまったのかも
しれなかった。
「ご馳走様」
「お粗末さまでした。あ、お茶入れますね!」
得意料理の一つであるカルボナーラを食べ終えて、直は空になった皿をキッチンへと運ぶために
立ち上がり、秋山に声をかける。
「あのさ」
「はい?」
ちょっと待っててくださいね、と小走りにシンクへ近寄ってそこに皿を置き、代わりに急須や湯
呑みを乗せたお盆を持って戻って来た直へ秋山が視線を向けるともなしに向けて、訊ねた。
「君って、よく食べる方ってわけじゃないよな。細いし」
「え? そうですか? うーん、どうでしょう。普通に食べると思いますけど………でも、学校と
かあるとついつい朝ごはんとは抜いちゃったりしますね」
「そう」
ちらり、と秋山の視線が低く唸る冷蔵庫へと投げられたが、その意味に気付けない直は、私、細
いですかね? などと自分の腕や胸、腰の辺りをペタペタと触っている。
「細いだろう。まあ、個人の主義に口出すつもりはないけど、それが意図的なものじゃないなら、
ある程度身体はしっかり作っておいた方がいいんじゃないのか? 体力もなさそうだしな、君」
「う、それを言われると痛いです。私、運動音痴だし」
「それ違うから。体力がないのと運動音痴はイコールじゃないよ」
「あ、そうですね! でも体力もちょっと自信ないんですよね」
少し運動した方がいいかなあ、と呟きながら、直はどうぞ、と煎れたてのお茶を秋山の前に差し
出した。
「あの、そう言えば秋山さん」
「なに」
「秋山さんって、苦手な食べ物とかありますか?」
直は言い難そうに切り出しながらも、そう続けた。
指先は明るチェリーピンクのワンピースの裾を、無意味に弄くって皺を増やしている。
秋山は軽い嘆息の後で、口を開いた。
「特には、ないよ。とりあえず」
「そうなんですか!」
よかった、とその言葉の裏に聞こえてきそうなくらいに嬉しそうに言われて、秋山はああ、と反
射的に応じてしまった。
「ちょっと心配してたんです。うっかり秋山さんに食べれらないものとか聞くの忘れてたって気付
いたのがさっき電話した後だったんですよ」
直はホッと胸を撫で下ろし、ワンピースを弄っていた手を止める。
せっかくお礼としてご馳走するのに、そこに秋山の嫌いなものが入っていては台無しになってし
まう、ということはどう心配しなくていいんだ、と安堵したのだろう。
「あの、それと、嫌いな料理とかってありますか?」
「それもない。基本的に食べられたらそれでいいし。務所にいた頃は、そういうこと言っていられ
なかったしね」
「そうか、そうですよね」
秋山の言葉を聞いて、直はなるほど、と思うと同時に自分も間抜けだな、と改めて思い少し俯い
て視線を落とす。
刑務所がどういったものであるのかを、彼女の中にある知識を総動員しても一般的なもの以上の
何も出てこないが、とても大変だったのだろうことは想像出来る範疇だった。
その大変さも、想像するよりもきっと、ずっと大きかったんだろう、と思うのだが、実体験のな
い直には想像の先へは到達のしようがない。
ならば、とばかりに意気込んだ顔で再び秋山を見た。
「じゃあ、せっかくだから秋山さんの食べたいもの作ります! なにがいいですか!?」
「………………好きなものと、急に言われてもね」
困ったような声を出す秋山を、直はじっと見つめる。
あまりレパートリーが豊富だというわけでもないのだが、秋山が食べたいと言うのであれば、出
来うる限りの努力をしたいと意気込む直は本気だった。
それなりの技量を必要とするような難しいものであれば流石に無理だろうが、自分が耳にしたこ
とのあるような料理なら、多分なんとかなるはず、と。
そんな直の意気込みを知ってか知らずか、秋山はしばしの間視線を雨の降りしきる外を窓越しに
眺め、それからおもむろに口を開いた。
「君の、得意料理」
「え?」
「だから、君の得意料理を作ってれればいいよ。どうせなら、その方が楽しみだしね」
「いいんですか?」
「俺がリクエストしてるんだけど」
直は本当にそれでいいのかと首を傾げて、どうやら本当にそれでいいのだと知ると、分かりまし
た! と大きく元気な返事を返す。
秋山には本当に世話になってばかりで、それが心苦しくてしょうがなかった直は、ようやっと彼
にお礼が出来るのだと嬉しくてしょうがない。
にこにこと自然にこぼれてしまう笑顔を、もう隠すこともできなかった。
だから彼女は気付かなかった。
そんな風に笑う直のことを少し斜めを向いた顔で視線を投げてよこした、秋山の顔に浮かんでい
ていた、苦いどこか傷むような色をした表情があったことを。
-To be continued-
うわ、暗い(笑)
いや、暗くするつもりがあったわけではないんですが。
次回は秋山サイドからの視点での話になります。てか、話が全然進んでないし。
キャラ設定がドラマの方なのですが、時間枠を考えると、どうしてもこういった状況になるには
ゲーム終了後でないとドラマでは無理になるんですよね。
ニ回戦から三回戦の間は敗者復活戦になっちゃいますし、そのまま三回戦ですし。
なので、ここはどーんと腹を決めて、これはドラマサイドの、ゲーム終了後ってことに。
(今さら決めるか!?)
盲亀の浮木は、極めて得難い機会に巡り合うことの喩えです。まあ、そういうことで。