■君を想うその先の
「秋山さん」
「あの三回戦の後、一ヶ月どうしてたんですか?」
「携帯電話、ずっと出てくれなかったの、どうしてなんですか?」
いまさらのこと、なのではあるのだが。
自分でも、そんな事を今この時になってから持ち出すのはどうなんだろうかと、思わなかった
わけではないのだけれど。
一度気になってしまうと、その思いは時間と共にどんどん成長してしまう。
本当に今さら、なんだと分かっていても。
正直者の彼女には、自分の中に生まれてしまった疑問をなかったことにして目をつむることは
出来なかった。
だがら、その疑問がふっと沸き上がったとき、なかば脊髄反射に近い勢いで口にしてしまって
いた。
ああ、今さら何を聞いてるんだ、と思ったのはその後のこと。
つくづく思ったことをすぐに言葉にしてしまう自分の口が恨めしくなったが、言ってしまった
ものは取り消すわけにはいかない。
そんな直が放ったものを受けて、一瞬だけ目を丸くした秋山は次の瞬間にはもういつもの彼に
戻っていた。
しかし、何も返されるものはない。
黙って前を向いたまま、ゆっくりと歩いていくので、隣に並んだ直もそれに従うしかなかった。
妙な沈黙が流れて、直は困ってしまう。
言うんじゃなかった。
直はどんどん落ち込んでいってしまった。
せっかく秋山に一ヶ月ぶりに出会えてとても嬉しかったのに、その気持ちが嘘だったよう胸の
中は重苦しいものでいっぱいだ。
そう、一ヶ月ぶり。
一ヶ月もの間、直は秋山に何度電話をしても繋がることのなかった携帯電話をポケットの中で
握り締めてしまった。
よく考えてみれば、理由をわざわざ秋山に尋ねなくとも分かることだったのだ、と冷たい感触
に直はそこから感染してしまったように身体中が冷たくなって行くような気がしてくる。
もしかしたら、こうして隣にくっついて歩いているのも迷惑なのかもしれない。
手の中の携帯電話。
直はなんだか泣きたくなってしまった。
けれど、泣く前にきちんとお詫びしておかなくちゃ、と直は奥歯を噛み締めてから顔を上げ、
秋山の背中を真っ直ぐ見詰めた。
そして。
「あの」
「電話、相変わらず凄かったな」
すみませんでした、と謝ろうと口を開いた直と、まるでそのタイミングを待っていたかのよう
に秋山がようやく、初めて言葉を口にした。
突然のことに対応できず、パチクリと目を瞬たたかせた直だったが、その意味するところに気
付くや真っ赤になって足がその場に吸い付いたように動きを止める。
足音が止まったことに気付いた秋山が肩越しに振り返れば、俯いて足元を見つめる直の姿があ
る。
見間違いでなければ、少し肩が震えていた。
ああ、言い方がまずかったか、と秋山は己の言葉の選び方の誤りを即座に察する。
おそらく、今にも直が泣き出しそうに目を潤ませているのであろうことも。
なので少しだけ口調を和らげて声をかける。
「よく、あれだけかける時間があるな。お前ちゃんと生活してたのか?」
「し、してましたよ! で、でもですね、三回戦が終わってから、秋山さん全然連絡とれなくて、
元気にしてるのかなとか、心配だったんですよ。だから………」
そこまで勢いに任せて言った直だったが、突然声がトーンダウンして一度は上がった顔が再び
俯いてしまう。
「余計なお世話ですよね。私なんかが心配しても、そんなの迷惑なだけですよね。………すみま
せんでした」
なんとか修正を試みた秋山だったが、どうやら直にはさらに間違った印象を与えてしまったら
しいと分かり、思わず天井を仰いでしまう。
つい無意識に吐いた溜息が、余計に直を縮こまらせるに至って、秋山はつくづくと実感した。
神崎直を相手にすると、どうしても上手くことを運べなくなるのは、何故なんだろうかと。
なので、慎重に言葉を選んだ。
「どっちかって言えば」
え? と直が顔を上げる
案の定、見事な泣き顔。
やれやれ、と記憶にも焼き付いているあまり心臓に良くないそれを目にして、尚更慎重を期し
て言葉を繋ぐ。
「感心したな。よく飽きないもんだ」
「飽きるわけないじゃないですか! だって本当に心」
「心配してくれてたわけか」
直が続けようとした言葉尻を奪ってそう言った秋山は、微かに苦笑めいたものを浮かべる。
「悪かったな」
「なにがですか?」
「電話」
「………でも、迷惑だったから………」
「なんとなく、出辛かっただけ」
きょとん、と直の目が丸くなる。
それを見た秋山の顔には罰の悪そうな表情が覗いた。
「慣れてない」
「はあ」
何がでしょうか、としっかり書かれている顔に、秋山は少し考えたあと、言葉を継ぐ。
「あんまり人と電話越しに話をするってこと、なくてね。慣れてない」
「え? そうなんですか? じゃあ、電話に出なかったのって、私からだからとかじゃなくっ
て」
「相手が誰か、ってのはあんまり関係ないよ」
ついでに言うのなら、俺の携帯の番号を知ってる人間そのものが、物凄く稀少価値だし、携帯
の履歴は同じ名前で埋め尽くされてるし。
この辺りの言葉は腹の奥に留めておく。
「でも、安心はした」
「安心ですか?」
「電話を毎日毎日かけてくるってことは、とりあえず君は元気でやってるわけだろ。それに、も
しなにか厄介ごとに巻き込まれたなら、携帯なんて面倒なことしないで、君、直接うちに駆け込
んできただろうし」
あの日、刑務所まで出向いてきたように。
「ああ!」
そこでいきなり直は大声を上げ、すぐにここはホスピスの中だったのだと気付いて両手で口を
押さえ、スミマセンスミマセン、と近くにいた看護士に頭を下げる。
そして改めて秋山に向き直ったとき、その顔には悔しそうなものがあった。
「私すっかり忘れてました。そうですよね、秋山さんのアパート知ってるんだから、そこに行け
ばよかったんですよね」
いや、あんまりどころか全然よくはないだろう。
一応男の一人暮らしの住まいに、ホイホイやってくるのはどうかと思う。
しまった、下手な智慧をつけてしまったかな、と思っても、後悔は先に立たないもの。
「じゃあ、あの、迷惑とかじゃ」
「言っただろ。感心したって。最後の方は、いつまで続くんだろうな、ってちょっと興味もあっ
たかもな」
「酷いですよ、秋山さん! せめて、十回に一回くらい出てくれてもいいじゃないですか! 私
すっごく不安だったんですよ! 秋山さんがどうしてるのか、分からなくて」
「それ、寧ろ君の方だろ。どうもトラブルとか面倒事に巻き込まれるの得意みたいだからな」
否定出来ません、と直はしゅんと項垂れてしまった。
まったく思考と行動が連動していて、分かり易い。
だからそれが、人に付け込まれるところなんだろ、とは思ったが、口にしたのはそれとはまっ
たく異なる言葉だった。
「とりあえず、働いてた」
「え?」
「この一ヶ月どうしてたのかって、さっき聞いただろ」
いきなりの発言に途惑う直を他所に、秋山は続ける。
「ゲームに掛りきりで、外に出てきてから殆ど働いてなかったから、先立つものが心許ない状態
だったんでね。まあ、普通に生活するのに必要なくらいの金を稼ぐことに専念してた」
「そうだったんですか!」
じゃあすごく忙しくて大変だったんですね、私からの電話なんて出る暇ないですよね、と呟く
直に、秋山は肯定とも否定ともつかない曖昧な表情を見せる。
その底意は、直には読み取れない。
ただ、秋山の顔に覗いた僅かな笑みに、気付くと直も笑顔になっていた。
一ヶ月連絡も取れなくて、敗者復活戦の前の時を思い出し、すごく不安だったけれども。
今目の前にいる秋山は幻でもなんでもないのだ。
そう思った途端、直は改めて思った。
(秋山さん、元気そうでよかった)
様々な思いも、結局はそのことで全部どうでも良くなってしまう。
とにかく彼は元気だったのだ。
元気でこうしているのだから、もうそれでいいではないか。
「秋山さん、ここに来るのって、初めてですか?」
「ああ」
「じゃあ、外、一緒にお散歩しませんか? ここのお庭って広くてお散歩にいいんですよ」
「別にかまわないけど」
前向きなものではなくても肯定の返事を得て、直はにっこりと嬉しそうに笑い、じゃあ行きま
しょう、と秋山の後ろから小走りに彼の横を駆け抜けて前に出た。
何がそんなに嬉しいんだろうな、とさっきまであんなに泣きそうな顔をしていたのが嘘のよう
にニコニコしている直を見て、秋山は関心したように目を細め、ほんのかすかに、口の端へ笑み
を乗せる。
秋山に背を向けて歩いている直は気付かないし、秋山自身にそれが意識されていたかどうかも
分からない。
「見晴らしが良くて、すごく気持ちがいいんですよ」
「へえ」
「そう言えば、秋山さん」
正面玄関を出て外に足を踏み出したところで、ふと、初めてこの病院を訪れた、と言う秋山の
言葉を思い出し、直はではどうして此処へ秋山はやって来たのかという疑問を持った。
誰か知り合いが入院しているのかな、と思いつつ、それを聞こうと思ったのだけれども。
「おまえはどうしてたんだ? この一ヶ月」
「え? あ、ええとですね」
逆に秋山から質問を向けられて、口にしかけたものは綺麗に四散する。
「色々あったんですよ、私も! ゲームで大学ずっと休んじゃってたし、バイトも休んじゃって
たりしたから、それも大変で」
まるで流れる水のように話し始めた直に、秋山はときおり短い相槌を打った。
それがなんだか分からないがとにか直は嬉しい。
「本当に大変でした」
「でも、俺に電話するのは忘れなかったわけか」
「あたり前ですよ! そうだ、今度から、本当に十回に一度は出てください、秋山さん! 別に
お話ししてくれなくてもいいんです。ただ、声が聞ければ」
安心するんです、と言われて、秋山はなんとも言い難い表情をちらりと見せた。
しかしそれも背中を向けた直には見えず、秋山自身に自覚があったかは分からない。
ただ、一ヶ月ぶりに耳にした声がひどく耳に心地いいことに、秋山は自分が彼女からの電話に
出ることができなかった理由を見つけてしまう。
一応の自覚はあったのだが、改めて。
「それって、一日十回はかけてくるってことになるわけ?」
「だからそれは、秋山さんが一回で出てくれれば………あ」
駆けて来る、まだ小さな少年に気付いた直が顔を上げる。
「コウタくん」
子供と話す直を少し離れた所から眺めていた秋山は、さてどうしたものか、と考えた。
この再会は予期せぬ出来事で、少なからぬ作為を感じずにはいられなかったが、そこにどうい
ったものが絡んでいるにせよ自分は再び彼女と出会ってしまったわけで。
「嘘だよー!」
相変わらず騙されて落ち込んでいる背中は、なんだか懐かしさすら呼び起こす。
馬鹿正直でお人よしですぐに騙される。
それはきっとこの先も変わらないもので、そのためのトラブルも彼女の元に集まってくるに違
いない。
さて本当に、どうしようか。
「秋山さん」
「あの三回戦の後、一ヶ月どうしてたんですか?」
「携帯電話、ずっと出てくれなかったの、どうしてなんですか?」
もしも電話に出て、声を聞いてしまったら。
会いたくなるに決まってる。
だから君の名前が表示された携帯電話を、見つめるだけで止めておいたのだが。
作為ある偶然で再会してしまった今、それは無駄な努力だったと思い知った秋山が出した答え
を聞いたのなら、目の前で落ち込んでいる彼女はどんな反応をするだろう。
でもとりあえず、まずはこう言っておこうか。
子供にまで騙される馬鹿正直さを、良く似たシーンを思い出しながら揶揄えば、やはり同じ言
葉を紡いでみせた彼女に。
「いいんじゃないか、別に」
嬉しそうに笑ってみせた顔が、振り返らせていた顔を前に向ける際にちらりと見えて自然と浮
かんだ己の笑みが制御しきれない。
やはりそうだ。
予想は間違っていなかった。
声を聞いて、その笑顔を前にして、勝ち目などどこにあるだろう。
駆け寄ってくる足音を耳に心地よく聞きながら、秋山は思った。
さて、本当に、どうしたものだろうか。
抜けるように青い空を見上げて。
-End-
全体の2/3は通勤の往復中に携帯でカチャカチャ打ったものなので
どうにも文章がイマイチなんですが、後半も大して変わりがないのでまあいいかと。(こら)
ドラマで、お父さんと直ちゃんと秋山さんが遭遇したのち、外に出てくるまでの
間をつついてみました。
いっそのこと、このままの勢いで一緒に暮らそう的話を持ち出して
うまいこと直ちゃんを丸め込んで(おいおい)自力で祈願成就しちゃえよ!
と、テレビの前で思っていたのは、私です。