■真夜中の水族館
おめでたいことなんだから、って言われて、ほんのちょっとだけお酒を飲んだせいなのかな。
お店を出たときには飲んでから随分経っていたのに、まだ私は少し足許が危なかった。
そのことに気付いてくれた秋山さんが、ほら、と差し出してくれた腕に恥ずかしさもあった
けれど、それよりも嬉しくて素直に少々心許ない自分の身体を預ける。
それだけれ、ほっと安心してしまう自分に、本当に秋山さんが好きなんだなあ、って思うと
自然と顔が笑ってしまった。
お店に入る前はまだ明るさが残っていた通りも、今はすっかり夜の中。
キラキラと耀くネオンやお店の明かりとか、緩やかに流れる車のテールランプなんかが、ど
ことなく水気のある空気にぼんやりと浮かんでいるのが、なんだかいつもと違って、不思議。
昼間の様子とは全然違って、別の世界に入りこんじゃったみたい。
でも、不思議なことって言うのなら、きっと今の私が一番不思議かもしれない。
だって隣に、あの秋山さんがいるんだもの。
一年前には絶対想像も出来なかったこと。
ちらり、と秋山さんの顔を盗み見るみたいに見上げると、私の知らない、でもよく知ってい
る横顔。
ああそうか、一年になるんだなあ、なんて今さら思う。
本当に不思議。
迷惑かけてばっかりだった私が、秋山さんの隣に立つことが出来るのも不思議だったし、秋
山さんが私にそれを許してくれたこともすごく不思議。
私の左手を手に取った秋山さんを見て、ついそう呟いちゃったら、少し呆れた顔をみせて、
それから困ったような顔で、そういうところがおまえらしいけど、と言われた。
どういう意味だったのかしら。
二次会のお店は、フクナガさんの懇意にしている人が経営してるお店で、貸切にしてくれた
からワイワイ好きなだけ騒いでしまって、ちょっと羽目を外しすぎたかも。
だけど、こんなことが出来るなんて思ってなかったから、嬉しくて余計にはしゃいでしまっ
たんです、ごめんなさい。
でも、たっぷりのドレープがあって、柔らかいシフォンの真っ白のワンピースはすごく可愛
いデザインで、今日の記念のものなんだから絶対汚さないって頑張りました。
こんな素敵なドレスを、着れるなんて夢みたいです、といったら、秋山さんも自分がこんな
恰好するとは思わなかったって、疲れたような顔をするから、二人でこっそり、笑ってしまっ
た。
本当は、二人だけでちょっとしたお祝いをして、それですませようと思っていた。
別にお金がどうということじゃなくて、それも多少はあるんだけど、なにより秋山さんも私
も、そういうのがあんまり得意じゃない、っていうよりも苦手だったから。
それに半年前に父が亡くなり、私には親類と言えるような身内は誰もいなくなっていたし、
秋山さんもそれは同じだったから、お互いにお互いの両親に報告だけして、と思っていたのに。
水臭い、とお知らせのハガキを(秋山さんには内緒で)送ったら、皆からお叱りを受けてし
まった。
私が事情を説明したら、一応は納得してくれたんだけど、やっぱりそれじゃダメよ、けじめ
はつけなきゃ、と言われて、今日の日が決まってしまって。
秋山さんは皆のことを、お節介だ、なんて言っていたけれど、本気じゃなかったんだと思う。
だって今日はずっと笑顔を見せてくれていたから。
どこが? と聞かれて困ってしまったけれど、私には分かるので大丈夫、秋山さんも皆の気
持ちを喜んでくれてる。
これからどうしようか、と皆が話してるのを見ながら、こっそりと秋山さんにさらにもう少
し身体をくっつけてみた。
そうしたら、突然、秋山さんの方から私の手を握りしめてきて、吃驚してしまった。
普段はあんまりそういうこと、人前でしない人だから余計に。
指の一つ一つをしっかり握りしめるような、秋山さんの私よりずっと大きくてごつごつして
いて、だけど繊細な優しい手が込めた力に、それが嬉しくも誇らしくもあって、なぜか少し切
ない気持ちになってしまって、気が付いたら秋山さんの手を同じくらいぎゅう、と握り締めて
いた。
秋山さんは私のことを見なかったけど、驚いたような、でも嬉しそうな、そんな横顔があっ
て、ああ、私は間違えてなかったんだな、と安堵する。
大丈夫ですよ、秋山さん。
ちゃんと誓いました。
私はずっと、此処に、秋山さんの隣にいますから。
こうやって、お互いの手を握り締めて、少しずつ前に向かって歩いて行きましょう。
だけど、ちょっと、本当は心配。
だって私にはお母さんの記憶がないし、お父さんとお母さんってどんな風なのかも分からな
いから、上手く秋山さんの奥さんが出来るかどうか、ちょっぴり不安なんですよ。
なので、私よりも先に奥さんをしている先輩のひろみさんと慶子さんに、よろしくご指導お
願いします、と頭を下げた。
そうしたら、二人は顔を見合わせてから、一緒に噴き出して任せなさいよ、と言ってくれた
後で、こう続けた。
誰かに教えて貰わなくたって、あんたがあんたらしくあれば、それで十分だと思うけど、と。
そうなのかな、どうなのかしら、と思いながら秋山さんを見たら、優しい表情の秋山さんが
いて、ああ、それでいいんだ、と納得してしまった。
でも、私らしいって何かしら、と無意識に呟いてしまったみたいで、そのままでいいってこ
と、と秋山さんが笑っているから、そうなのかな、と首を傾けてしまう。
でも、そのまんまの君が一番だと思うけど、と言ってくれた秋山さんの言葉を信じて、私は
今までやってきたように、秋山さんのことを好きでいようと思う。
時々、困らせちゃうこともあるかもしれないけど、そこはなんとか、よろしくお願いします。
君は変わらないねえ、と木田さん言われて、岡野さんと江藤さん、大野さんも一緒になって
笑うから、少しは成長しましたよ、と頬を膨らませてみせたら、余計に笑われてしまった。
皆、酷いです、とそう思いながら、ふと違和感を感じて秋山さんを見上げた。
秋山さんが、少し、遠い。
どうしたんですか、と思わず聞いてみたら秋山さんが私のところへ戻って来た。
そして優しい笑みを口許に浮かべたまま、すいっと前屈みになって私の耳元に口を寄せて、
一言、囁きかけてきて。
絶対私の顔は、夜の灯りの少ない中だって分かるくらいに真っ赤になっていると思う。
秋山さんは、時々こうやって、秋山さんらしからぬ行動を取って、私を吃驚させて立ち往生
させてしまうのが得意。
だけど、今日は負けないですよ。
だって特別な日ですからね。
そう意気込んで、思い切り爪先立って、自分よりも高いところにある秋山さんの耳にお返し
の言葉を囁きかけた。
ほらね、私、少しは成長したでしょう?
ふ、と表情を緩めた秋山さんに私はちょっと誇らしくなってしまった。
でも、そういえば、さっき、秋山さんの心は何処に旅に出ていたのかしら。
なにかを見ていたようなんだけれど、私には分からなかった。
どうかしたんですか、と訊ねようとした所へ、タクシーが滑るようにして私たちの横に止ま
って、その問いは空中分解。
仕方がないので、後で聞くことにしよう。
ドアが開いて、前に乗り込んだひろみさんに促されるままに、後に続いて後部座席に身体を
滑り込ませたけれど、秋山さんはドアに手をかけたきりなかなか乗ってこない。
やっぱりなにか、見ているみたい。
どうしたのかな、と思いながら呼び掛けてみたら、すぐに秋山さんは私の方に振り返って私
の隣に並んで座った。
それを待っていたドアがバタンと閉じれば、軽い振動の後でタクシーは走りだして、夜の景
色は光りの帯を浮かび上がらせて流れていく。
それを見つめる秋山さんの横顔に、知ってる人がいたのかしら、となんとなくそう思って、
それを聞こうとした瞬間に、秋山さんが私を真正面から見つめてきたから、言いかけた言葉が
またしても吹き飛んでしまった。
けれど、それはまだ序の口だったみたい。
そんな私を揶揄うみたいに、でも優しい表情で秋山さんが口にした言葉に、私の頭の中は本
当に真っ白になる。
揶揄ってるのかな、と一瞬思ったけれど、笑いながら見つめてくる秋山さんの瞳にはとても
真剣な色があったから、違うんだな、とわかった。
でも改めて、となるとなだかちょっと恥ずかしいから、少し深呼吸。
アキヤマさん、だったら何度も何十回も、もしかしたら何百回も口にしてきたけれど。
まだ慣れない、大事な四文字を大切に大切に口にしたら、とても嬉しそうに微笑む顔に出会
えて、私も嬉しくなって、多分今、負けないくらいの笑顔を浮かべていると思う。
タクシーは何処に向かっているのか分からないけれど、隣に誰より私を強くしてくれる人が
居てくれるから大丈夫。
窓の向こうに流れる風景は、不思議な蒼の中にたくさんの色が流れていてなんだか、あの時
の熱帯魚が泳いでいた水槽を思い出させるみたい。
だけど、ここはもっと広くて、何処までも続くみたいで。
夜の水族館みたいですね、と囁いたら、ちょっと目を見開いて、それから笑ってくれた。
だからちょっと頬を膨らませて、変ですか? とわざと聞けば、全部分かってるよと言いた
げに笑みを深めて、ちょこんと額にキスを一つ。
ごちそうさま、なんて声が前の座席から聞こえてちょっと慌てる私とは対象的に涼しげな顔
の彼。
勝てないなあ、なんて今更のように。
そうして、タクシーは蒼い水底をゆったりと泳ぐように走る。
蒼い水の中に溶けるみたいに、その柔らかな光りの向こうへと。
-End-
直視点の、水族館で、真夜中シリーズは終了です。
今回のことでよーくワカリマシタ。
書けば書くほど、長くなるんだな私!
ヨコヤ編と秋山編は、まだ1割増な感じでしたが、
直編は、倍ですよ、倍!
直ちゃんの場合、独白させるにあたって、二人称だけで済ませるのは無理でした。
固有名称を出すのはどうかと思ったんですが、直ちゃんのイメージとして
あなた、だの彼、だの、そういう単語で秋山さんのことを語らせるのは
たとえ独白でも、なんかちゃう感じがしたので
この際だから、思い切りよく、全員固有名称を上げました(笑)
あ、しまった、土田さんだけ出てないぞ!
なので、彼は、この先に続く話で出させて戴きます。
未来を誓っちゃうイベントをご希望の方がいらしたので
書こうかなと、思います。
イベントに至る過程も、この際だから書くつもりです。
なので、こんな感じの短い話が、つらつら繋がっていく形で
アップされていく予定です。