■星願
ただいま、とそう言ってから、なかなか上がってこないのでどうしたのかと玄関を覗いてみれ
ば、どうしたものかと困っている姿があった。
ぽたぽたと髪の先から滴る雫が、玄関先に黒い染みを作っている。
どうやら、そのまま上がったら家の中を濡らしてしまうので、どうしようか、と悩んでいる最
中だったらしく、自分を見つめる視線に気付いて顔を上げた直は、降られちゃいました、と、照
れたように笑ってみせた。
そんな彼女に、秋山はおかえり、と言うのと同時に一端中に戻って、洗面所から持ってきたタ
オルをその頭の上に乗せてやる。
もちろん、溜息というオプショナル付きで。
「ありがとうございます」
しかし、その溜息を吐かせた当人は、小さく落とされたものにはまったく気付いていないよう
で、礼を述べると嬉しそうに頬を緩めて受け取ったタオルを使い、すっかり濡れそぼっている髪
を拭き始める。
よくよくと見れば。
服も靴もびしょ濡れで、頭を拭いた後に足を拭きワンピースのスカートをぎゅうっと絞ってか
らようやく玄関を上がってきた直の姿は、見事な濡れ鼠だ。
あんなタオル一枚では到底カバー仕切れまい。
秋山はさらに大きなタオルを一枚取り出してきて、肩の上からかけてやった。
「傘、買えば良かっただろ」
「それが、コンビニに寄ったんですけど、売り切れちゃってて」
突然の大雨に飛ぶように傘は売れてしまい、一歩出遅れた彼女の分までは残されていなかった
らしい。
思わず秋山は溜息をまた吐いてしまう。
天井を見上げなかったのは、せめてもの気遣いだ。
コンビニに寄ったら傘は売り切れいていた。
だったら、どうしてそこで雨宿りをして、自分に電話の一本もして向かえに来させなかったの
か。
そう考えたのはほんの一瞬で、すぐに秋山はそれを頭の中から捨て去った。
そんな可愛い我儘も、いや、我儘にもならないようなお願いも、申し訳なくて、と言ってしま
い、とても実行することなど出来ない子なのだと、本当によく知ってしまっているからだ。
同じ時間を共有するようになって、まだそれほどの長い付き合いとも言えないのかもしれない
が、その間に秋山はみっちりきっちりと身をもって、ほぼ毎日目の前のずぶ濡れの彼女から教え
られていた。
直が口にする我儘とは、本当に小さくてささやかなものでしかなく、世間一般的に見れば、彼
女くらいの年頃の女性なら器用に使いこなすだろう恋人へのおねだりも、遠慮が先に立ってまっ
たく思いつく余地すらない人間なのだと。
恋人としては、もうちょっとこう、なんというのか物足りない感じもないではないだろうが、
それが神崎直という人間の人間たるものであると、やはりよく分かっているので秋山はただただ
嘆息するしかない。
なので、とりあえず言いたいことは圧し留めて、まだ濡れている髪を拭いてやろうか、と手を
伸ばしたのだが、そこで秋山は直が思っていた以上に冷え切っていることに気付いた。
夏の雨といっても、今日は例年よりも気温が低めだ。
それでこれだけ濡れていれば、冷えもしよう。
これは、拭いたくらいではダメだな、と秋山は自分が直に与えたタオルを引き剥がしてしまっ
た。
「あ、秋山さん?」
「シャワー浴びてきなよ。身体、暖めた方がいい」
「え、でも」
「いいから」
秋山にきっぱりと言い切られてしまうと、直にはそれを拒否することが出来ない。
分かりました、と殆ど条件反射のように応じて、寝室に立ち寄り着替えを手にして、風呂場へ
と姿を消した。
やれやれ、と、改めて溜息一つ。
風邪をひかなきゃいいけどな、と思いながら、秋山は直が部屋の隅に置いていった鞄を手にと
って、やっぱり濡れているそれを拭き始める。
大学の講義が何も入っていない水曜日は、直が彼女の父親が入院しているホスピスに行く日だ
った。
普段から時間があれば顔を出しているのだが、今日だけは何があっても必ず病院に行く。
少し大きめの鞄の中には、父親の着替えやらなにやらが詰まっているに違いない。
梅雨の時期であるから仕方ないのだが。
今日ぐらい、せめて昼間は晴れていてもいいだろうに、と秋山は止まない雨を落とし続ける空
をちらりと見上げて、そう一人語ちた。
傘を持っていくように、言わなかった自分に少し自己嫌悪をしながら。
「これ、ホスピスで貰ったんです」
シャワーを浴びて頬に赤みを取り戻した直は、ニコニコしながらそれを取り出してみせた。
手には、秋山が入れてくれた温かなホットチョコレートがある。
白い湯気をやんわりと立ち上らせるカップを両手で包み込むように持って、少しずつ飲みなが
ら秋山の手がそれ、を軽く指先で弾くのを見た。
「よかったら、どうぞって」
直の鞄の中からは秋山の予想通りに父親の着替えが顔を出して、それらは洗濯機の中に放り込
まれ、びしょ濡れだった彼女の服と一緒にただ今クルクルと回っている最中だ。
だが、秋山の予想とは異なるものも、そこから一緒に飛び出した。
それが、ホスピスで貰ったと言うもの………鮮やかなこれといってなんのデザインも施されて
いない単色の色彩をした細長い紙切れ。
即ち、短冊、というシロモノ。
「毎年、この時期になるとホスピスの玄関に大きな笹が飾られて、そこに患者さんやそのご家族
なんかが、願い事を書いた短冊を下げるそうなんです」
「なるほどね、七夕の願い事ってやつか」
「はい。けっこう大きな笹なんですよ」
言いながら、直は若草色の短冊を秋山に差し出した。
それを見た秋山は、直の口から続いて紡ぎだされるであろう台詞が既に頭の中に浮かんでいる。
「よかったら、秋山さんもどうですか?」
見事に予想通り。
「俺はいいよ。君が書けば」
対する直も、恐らく彼のこの返事が予定通りのものだったのだろう。
落胆するようすもなく、笑顔を見せたまま別の短冊を秋山の目の前に示した。
「私の分もあるんですよ。ほら!」
彼女の手の中には、明るい山吹色をした短冊が一枚。
「二枚も貰ったのか」
「いえ、三枚です。もう一枚は、父と二人で願い事を書いて、今日、もう笹につけて来ちゃいま
した」
「ふーん。つまりこれは、俺用ってわけ」
父親との短冊に何を願い何を書き記したのか、それは直も言わないし、秋山も聞かない。
「はい。だから、是非、書いて下さい! 明日、笹に飾ってきます」
ニコニコと笑顔を向けてくる相手に対し、無下に断ることも出来なくて返事に詰まる。
相手は自分より一回り近く年下で、おまけに恋人と言う名前を付けられる存在であれば尚更。
かといって、願い事など思いつかない。
基本的に秋山は他力本願思考がない。
他人に自分の願い事を叶えて貰おうなどとする前に、自分でどうにかする人間だ。
ましてや、それほど数多くない彼の願い事の中でもトップに位置するものは、他人に願ってみ
たところでどうにもならないし、自分でどうにかするにも限界があって、あとはもう、目の前で
ニコニコ笑っている人物が全部握ってしまっている。
要するに、秋山には七夕の願い事、なるものがまるで思いつけないわけだ。
「………お父さんと一緒に、君の願いごとを書いてきたって言ったけど、なんで君の分はまだそ
こにあるわけ」
なので、とりあえず答えを保留するために、別の問いを投げ返す。
気になっていたことでは、あるのだが。
「あ、それは、父の願い事を書いた裏に、私の願い事を書いたからです」
「ふーん」
自分の分だと言って渡された短冊を指先でクルクルさせながら、秋山はまた少し、沈黙した。
星への願い事、そんなもの。
意味もない、と言ってしまうのは容易い話だった。
都心ではもう拝めなくなっているが、この辺りではまだ辺りに夜空を侵食するような凶悪な夜
を照らす人工の光が少ないせいか、比較的見ることが出来るこの地球を包む幾億の星の耀き。
けれどそれは、何億年も前に遙か彼方、人には到底辿り着けない果ての闇の中から届けられた
ものであって、過去の残照なのだ。
あの光の中の何割かは、とっくに存在を失った星なのだろう。
記憶の影だけが、ただそこに幻のように。
そんな光の欠片に、何を願えと言うのだろう。
願えば叶うものなど、本当に僅かしかない。
けれど。
「秋山さん?」
どうしたのかな、と首を傾げて見つめてくる直の目に映る自分に、秋山は苦笑してしまう。
自分のような夢の欠片も存在しない心とは正反対の、彼女の心にあるものは純粋にこの誰かが
思いついたのだろう行事を楽しみたいという気持ちだけなのだ。
きっと、願えば叶うなどとは、彼女だって思ってはいないのだろう。
ただ、そうであってくれればいいと願う気持ちを形にして、それを自身に焼き付ける。
そうして、そうなるように努力する。
彼女の願い方はそういうものだ。
誰かに頼ろうとする、他力本願の人任せなものではない。
脆く頼りないように見えて存外に他人に頼ろうとしない彼女が、無条件に僅かながらの願いを
自分に向けてくれることが近頃は嬉しくも誇らしくもある自分に気付いて、秋山は気付いたら口
角を僅かに持ち上げて笑っていた。
出会ったばかりの頃の自分は何処へ行ったのか、今の自分を見たのなら正気の沙汰じゃないと
それくらいのことは思ったかもしれない。
「なんでもないよ。あんまりまん丸な目で見てくるから」
「そ、そんな」
「それより、自分の願い事はもう決まってるのか?」
「え? あ、はい」
「なら、それ、ちょっと貸して」
「はい?」
なんだろう、と思いながらも直は素直に自分が持っていた山吹色の短冊を秋山に差し出した。
それを受け取ったかと思うと、秋山は直から短冊と一緒に渡されていたサインペンの蓋をとり
きゅ、と何かを書き込んでしまう。
「え? 秋山さん、それは私の」
「うん、分かってるよ」
途惑う直に構わずに最後まで書き込むと、秋山はペンに蓋をして、それと一緒に短冊を直に返
した。
「………秋山さん、これ」
「今のところ、それくらいしかないから。どうせなら、一枚でやった方が効果もありそうだろ」
「でも、でも秋山さんのお願いじゃなくなっちゃいますよ」
「いや、俺の願い事だよ」
小さく微笑まれて、直は短冊とそんな秋山を交互に見つめてから、何を思ったのかいきなり秋
山の目の前にあった彼の分の短冊を手にとって、何事か書き記す。
そしてそれを、秋山に再び差し出した。
「俺にそれをやり返してどうするんだ。君の願いはそっちに書きな」
「はい、書きますよ。だから秋山さんもこれに書いて下さい」
「そんなにたくさんの願い事書いていいのか?」
「大丈夫ですよ! だってお星様はたくさんいるんですから」
なるほど、と思わず思ってしまってから、秋山は苦笑をもらす。
願い事は少ない君でも、今日は特別なのか。
「だけど、おまえちょっと、無謀なんじゃないのか?」
「何がですか?」
「俺がここに何を書くか分かりもしないで、こんなこと書いて」
「秋山さんだって同じじゃないですか」
「俺とおまえとじゃ、危険度が違う」
何を言っているのか分かりませんけど、と言いたげに首を傾げる直に、秋山はそれ以上は何も
言わずに自分の短冊へと目を落とした。
本当に、無謀だと思うのだが。
「まあ、あとは君次第か」
「え?」
「なんでもない」
秋山の手には若草色の短冊、直の手には山吹色の短冊。
裏側には互いの願いが書き込み済みの。
「じゃあ、一つお手柔らかに」
「はい」
きっと自分の言っていることの意味も、よくは分かっていないんだろうな、と思いながらも、
秋山は再びサインペンを手に取った。
さて、どこまで本音を書いたものかな、と思いながら。
窓の外は、相変わらずの雨だ。
この分で夜になっても止みそうもない。
天気予報では明日も一日、こんな調子だと告げていた。
「残念ですね。折角の七夕なのに」
「この時期の日本は梅雨だからしょうがないさ。確率的には晴れる可能性は三割程度だしね」
「そんなに低いんですか!」
直は吃驚した声を上げて、じゃあ、織姫と彦星が会える年って少ないんですね、と少し寂しそ
うな顔をして言う。
それはあくまでも物語の中のものなんけどね、と、秋山は思ったが言わずにおいた。
代わりに、昔聞いたことのある話を口にする。
「まあ、心配はする必要ないんじゃないのか? 雨が降って天の川の水かさが増したら、カササ
ギが橋の代わりをしてくれるらしいから」
「そうなんですか? じゃあ、雨が降っててもちゃんと会えるんですね!」
途端に嬉しそうに顔を綻ばせた直に、自分のことでもないのにそこまで喜ぶなんて、実にらし
いな、と思いながら秋山は頷いてみせた。
「むしろ、煙幕が掛っててありがたいんじゃないのか?」
「? 煙幕?」
「雲だよ。晴れてたら下からデートを覗き見する連中がいるけど、曇りならそれもなくて二人だ
けで過ごせるだろ」
「あ、そうか、そうですね。秋山さん、すごいです! そんな風に考えたことありませんでした
けど、でも、言われてみればそうですよね」
単純に手放しで喜ぶ姿は微笑ましいが、あまりにも素直に自分の話を信じてしまう直を、秋山
としてはなんとなく揶揄ってやりたくなる。
「俺が彦星なら、そっちの方がいいよ」
「二人きりの方がですか?」
「そ。露出趣味はあんまりないから」
意味が分からず困惑する直に、秋山はすっと右手を伸ばした。
そしてそれを直の首の後ろへ回し、後頭部を軽く抱えるような恰好になって。
「………えと、秋山さん」
「なに」
「物凄く、顔が近いんですけども」
「俺の顔はアップに耐えられないと」
「いえいえ! 反対です! なんかもう、心臓が」
「じゃあ、どうせなら」
「どうせならって、なに………」
シトシトと、止まない雨は窓の外。
明日の七夕は晴か雨か。
どちらにしても、織姫と彦星はちゃんと会えるので心配ないよと。
笑う顔に直はちょっとだけ頬を膨らませてから、そうですね、と微笑み返した。
この短冊に書かれている大切な人の願いごとが、どうか叶いますように。
-End-
七夕なので。
だけど、どの辺りが七夕なのかは自分では分からないんですけど。
七夕の伝説そのものは、悲恋なんでしょうか、それとも、まあある意味ハッピーエンド
なんでしょうか。
教訓話にそれを求めてはなりませんか?(笑)
それにしても。
どうしたらこう、もっと甘い話は書けるんでしょうかね。
いちゃいちゃさせたい! だけど、秋山さんのキャラがあああああ!
私の脳内の調整が必要かと思われます。