■日曜日はご一緒に 前
高級なブランドショップというより、若者向けの比較的購入しやすい手ごろな値段の、それで
も一応はそれなりのブランドを保つ店が立ち並ぶその一帯は、秋山が予測していた通りにどこか
ら集まったのかと疑問を抱くほどの人でごったがえしていた。
平素から人の多いその通りは、休日ともなるとさらに人数が倍増することは明白だったのだが、
しかしここまでとは、と人ごみを好まない秋山にとっては些か辟易するものでしかない。
だが、それ以外にも彼の機嫌を斜めにさせる理由はあった。
それはもちろん隣を歩く存在に他ならない。
ゆっくりと本来のものよりも歩調を緩めて歩く秋山の横を、ちょこちょこと並んで歩く直は、
時折擦れ違う人と肩をぶつけるのだ。
そうならないように、彼女を車道とは反対側の店の壁が並ぶ側を歩くように身体の位置を移
動させたのだが、相手の方がさらにその横をすり抜けようとするのは防ぎようがない。
「あ、す、すみません」
これで何度目だ、その台詞。
思わず秋山は溜息を吐きそうになる。
もちろんだが、彼の機嫌が斜めになっているのは直に対してではなく、彼女にぶつかっても何
も言わずに、時には明らかに向こうに非があるにも拘らず冷たい視線をぶつけてくるような輩に
対してだ。
自分もけして礼儀正しいとは言い切れないが、少なくともそんな場合に一言声をかけるくらい
の常識はある。
だから彼女の代わりにそんな連中へ鋭い眼光を秋山が遠慮なくぶつけていたことを、もちろん
だが直は知る由もなかった。
知る必要もない、と秋山は思っていただろう。
「なんだかすごい人、ですね。秋山さん」
「ああ」
こんなに人が集まるんですね、と感心しきりの直に、秋山は思わずまた一つ溜息を吐きそうに
なった。
それを寸前で堪えたのは、横を歩く彼女が楽しそうに笑っていたからでもあり、そしてその姿
を自分の隣から見失わないように気をつけてなくてはならなかったからでも、あったかもしれな
い。
まるでベルトコンベアーに乗せられて運ばれているかのように、流されるようにしか歩けない
人の多さを前にして、秋山は非常に心許なかった。
ただでさえ平面で転べるという技術を持った直がいつ、うっかりを演じないともしれない。
秋山とてそうならないように十分気をつけていたが、そうでなくてもおっとりしている直は気
をつけなければあっさりと人の波に飲まれてしまいそうだった。
こんな場所で連れ立って歩くのはなかなか注意力を求められるだろう。
もちろんそれは、意識してのものではなく、無意識のうちに行われるものだ。
普通の場合は。
ところが、彼女は色々と普通ではないので。
だから気をつけていたつもりだったのだ、秋山は。
しかし。
「あ、と」
やっぱりと言うのか、予想を裏切らないと言うのか。
直はうっかりとすれ違った人の肩に触れてしまったことを謝っている間に、隣にいたはずの秋山
を見失っていた。
気付いた時には、もう彼の姿はなく見知らぬ人の群れが自分の横を通り過ぎてゆくばかりだ。
どうしよう、と直は焦った。
もしかしてこれは迷子になるのかしら。
しかしデパートならば呼び出しも出来ようが、こんな通りではそれも無理な話。
携帯電話、と一瞬考えたものの、この辺りの地理に詳しくない、というよりまったく知らない
直が、自分が今何処にいるのかを秋山に電話で説明できるかどうか、自信は欠片もなかった。
「えーと、秋山さんは………先に行ってるよ、ね」
向かっていた店の場所は、地図があるので分かる。
それを頼りにして目的地まで行けば、恐らく秋山はそこにいるはずだ。
一度見ただけで秋山は大概のものを記憶することが出来るらしく、地図も覚えたから、と直に
持たせていたのだが、これは今回幸いしたと言えるだろう。
「確か、この通りをまっすぐに行くのよね」
鞄を探って取り出した地図を見て、直は周囲の建物を見回しながら確認する。
地図を見るのは得手ではないのだが、そんなことを言っている場合ではなかった。
人間必死になると意外に普段より力が発揮されるようで、なんとか、直は自分が進むべき道を
確かめることが出来たので、よし、と意を決して顔を上げる。
が、改めて見た通りを行き交う人の多さに、直は思わず、う、と飲まれたように小さく呟いて
いた。
秋山が隣にいたときにはまるで感じなかった、妙な圧迫感が一気に迫ってきて、要するに、気
圧されたのだろう。
これじゃ、いけない、とまず一端店の壁に身体を寄せるように少し脇に移動して、一つ大きな
息を吐き出し冷静さを自身に求める。
大丈夫、大丈夫、と呪文のように唱えると、いざ、と改めて直は一歩踏み出そうとした。
踏み出そうとして、何かに、ぶつかった。
「ごごごごご、ごめんなさい! 前をちゃんと………」
「見て歩け。どこ見てたんだよおまえ」
「ああああ、秋山さん!」
勢いで潰れてしまった鼻を押さえて、直は目の前にいきなり現れた相手を見上げ、嬉しそうに
声を上げる。
安心したと同時に、身体から緊張が抜けて危くその場にへたり込みそうになってしまった。
「っと、おい」
「す、すみません、なんか、ほっとしちゃって」
「俺もひやひやしたよ。まったく」
「すみません………」
前髪をかき上げて溜息を吐いた秋山に、直は恐縮しきったように身体を小さく縮こまらせて謝
罪の言葉を綴る。
やれやれ、と思いつつ、秋山はそんな直の頭の上にぽん、と手を置いた。
「気にするな。これだけ人がいれば仕方ない」
「あ、あの、ありがとうございます。秋山さんに見つけてもらえて、よかった」
「確かに、見つかって良かったよ」
秋山が吐き出した息はいつになく荒いもので、ここにきて幾ら鈍感な直にも分かるものがあっ
た。
「秋山さん、あの、すごく、心配、掛けちゃいましたか………?」
「突然君が消えれば当たり前だろ」
ちょっと目を離すと、見るからに怪しい連中に絡まれていたり、明らかなキャッチに掴まりそ
うになっていたり。
人ごみを秋山が直と歩くことを好まない理由は、そこにも密かに隠れていた。
「すみません………ありがとうございました、見つけてくださって」
ぺこり、と頭を下げた直に、秋山は一瞬虚を衝かれたような顔をみせてから、ふ、と笑みを乗
せて僅かに口角を持ち上げる。
「もう慣れた」
「な、慣れたって」
「それより、おまえどこに行くつもりだった」
「え? ええと、あの、秋山さんを見つけるのはこの人ごみだと無理そうだったので、目的地の
お店に行ってみようかなって」
返って来た応えは、予測通りだったのか、秋山は右手で顔半分を覆うようにして嘆息してみせ
た。
鈍感といわれる直でも、その態度が明らかに自分の何かが間違っていたからのものだと察せな
いほどには秋山との付き合いも短いものではなく、はて、自分は何をやらかしたのだ、と慌てて
地図を取り出し改めてじいいっと見つめてみる。
「おまえ、自分が今どこにいるか、分かってるか?」
「え、ええと、ここ、ですよね。………多分」
「それで、この通りを真っ直ぐ行けば目的地に辿り着けると」
「はい」
そうですけど、それって間違ってますか? と目線で問いかけてくる直に、秋山は無言で地図
の方向を四十五度動かしてみせた。
つまり、それまで縦だったものが横に、横だったものが縦に。
「本当は、地図ってのは自分が居る場所や向いてる方角に合わせて上下左右を動かして見るもの
じゃないけど、おまえの場合こうしないと分からないだろ」
「ええと、あの、つまり私は、方向を間違えていたってことなんですよね」
「そのまま進んでたら、確実に俺とは会えなかっただろうな」
きゃー、と声なき悲鳴を上げて直は地図を握り締め、もし此処が往来でなかったのならその場
にしゃがみ込んでいたかもしれない。
それだけは辛うじて押さえ込んだが、真っ赤になった顔を地図がくしゃくしゃになるのも構わ
ずにそれに押し付けてしまった。
「………秋山さんに見つけてもらって、本当によかったです………」
「おまえは、迷子になったらその場から動くな。俺が探すから」
「………はい、ありがとうございます!」
そこでお礼を述べるということは、これからも迷子になる気満々なのか、と突っ込みたいよう
な気がしたが、秋山はそうする代わりにポンポン、と乗せたままになっていた手を直の頭の上で
軽くニ、三度上下させることに変換する。
「じゃあ、行くぞ。こんどははぐれるなよ」
「はい」
返事は宜しいが、いまひとつ信頼性に欠けてしまうのは経験に基づく正しい判断だろう。
秋山は少し考えた後で、直に向かって手を差し出した。
きょとん、とした顔を見せて、その手と秋山の顔を交互にきっちり三回じっくり眺めた後で、
ようやく秋山の意図を悟ったらしい直はぱあっと笑顔を綻ばせて、自分の手をそこに重ねる。
往来の人前で手を繋ぐカップルを、関心もないがかなり冷めた目で見ていた自分がこの行動に
出ることに躊躇いもなかったのは、多分に相手のことを心配してのものであり、同時に自分の心
配のキャパの限界をカバーするためのものなんだよ、と秋山は誰に対してなのか分からない言い
訳を巡らせていた。
ただ、周囲からは、恐らく自分がそうであったような目で見られているんだろうな、と思うの
だが、別にそれが嫌だとは思わない。
直の身の安全を優先すれば、そんなものは余りに瑣末過ぎた。
要するに、これが恋する者の思考回路の流れなんだな、とそんなところで妙に冷静に秋山は自
分の行動を分析してしまう。
「だけど、おまえ本当に地図に弱いな」
「昔からダメなんですよ。お父さんにも呆れられちゃうくらいで。ちゃんと地図を見てるはずな
んですけど、気付いたら違う場所に行ってたりするんです」
「そりゃまた見事な方向音痴ぶりだな」
「なんででしょうね? 秋山さんなんて一回見ただけで覚えちゃうのに」
はああ、と溜息を落とす直に、秋山はポンポン、と軽く頭を叩いてやった。
「おまえから目を離すと、何しでかすか本当に分からないな」
「え? 何か言いましたか?」
小さく呟かれた声は直の耳には届かなかったようで、聞き返されたことに秋山は別に、と応じ
た後で、言葉を継ぐ。
「しかし、おまえそれで良く今日まで無事にやってこれたな」
「あ、迷うことは多かったんですけど、そういう時はお店の人に道を聞くようにしてました。交
番があると一番ですよね」
なるほど、と納得しかけたところで、ふとあることが気になった秋山は、直が手にしている地
図にちらりと視線を投げた。
「もし、あのまま真っ直ぐ行って迷ったことに気付いたら、やっぱり誰かに聞くつもりだったっ
てことか」
「はい!」
もちろんですよ、と笑顔を向けてくる直に、秋山ははあああああ、と大きな溜息をどっかりと
直の上に落とす。
「ああああ秋山さん? なんでそんなに疲れちゃった顔してるんですか? 私、なにか間違って
ますか?」
「いや、人に聞くって行為自体は間違ってないと思うよ。ただ、今回はその方法は通用しなかっ
ただろうと思ってさ」
「え? どうしてですか?」
不思議そうな直に、秋山はどう説明したものか、と暫し視線を歩く先へと泳がせた。
フクナガが寄越した地図に、書き込まれていた『K.E』の文字。
そこに行ってみたら面白いものが見れる、とフクナガに言われた直は当然行く気満々だったの
だが、それが何を示しているものであるのかはまったく知らない状態なのだ。
秋山の予想が間違っていないのなら、恐らく、彼女はそれのことを。
「K.Eって、何かの店の名前だとか思ってる?」
「違うんですか?」
てっきり洋服のお店とか、雑貨屋さんとか、面白いって言うのはそういうことかと思ってまし
たけど、と首をちょこんと傾げた直に、秋山はただ溜息一つ。
「秋山さん、知ってるんですか? このお店」
「知ってるんじゃない。分かったんだよ、フクナガの腹の内が」
「腹の内?」
「それにここは、商品を販売する小売店でもない」
「え? じゃあ何なんですか?」
不思議そうに、けれどそこに好奇心を孕ませて直が秋山の顔を覗き込んでくる。
それに対して秋山は返事を返す代わりに、ついっと直の手を握っているのとは反対の手を持ち
上げて目の前を指差した。
「そこだ」
「え?」
「その地図に描いてあった場所」
「あ、あそこですか?」
秋山の指の先を目で追った直は、思わず目をまん丸にしてしまった。
途中で道を折れて大通りから逸れた辺りから、あれ、とは思っていたのだけれども。
なぜならそこには、今まで見てきたようなおしゃれな感じの店はなく、普通の家が立ち並んで
いて、その中には下町の工場のようなものがちらほらと紛れているような様子が広がっていたか
らだ。
「ええと」
「間違ってないぞ、断っておくが」
「いえ、それは大丈夫です、秋山さんが間違ったりするはずありませんから! でも、あそこっ
て………略しても、K.Eにならないですよ?」
「そうだな」
看板を見て不思議がる直に、秋山は視線を落とした。
「行けば分かる。多分な」
「そうなんですか? じゃあ、行って見ましょう、秋山さん!」
張り切って腕を引っ張る直に、秋山は促されるまま足を動かした。
そっと、溜息を一つ落として。
-To be continued-
曜日シリーズ、日曜編です。
まだ問題の「K.E」についてばらしておりませんが
此処で気付いた方もいるかな? と思います。
渋谷とか、行ったりすると、本当に不思議になるんですよ。
こんだけの人間、どこから降って沸いたー!と。
秋葉原とか、なんかもう。
私の日常が田舎の誰も通らん道を、のたのた歩く生活なので人の波は苦手です。
そして、地図が苦手なのは、私も直ちゃん並です!
地図を見ていて、反対に歩けるんですよ。
一番笑ったのは、イギリスで一人で歩いてホテルからロンドンの中心まで行ってみよう!
と思ったのに、段々なんか町並みがおかしくなるなーと思ったら
道路の案内表示板に「ヒースロー空港はこっち」てなのがあってびっくりしたことですね。
「反対に歩いたんだな」と遅れ馳せながら気付き、慌てて元来た道を戻りました(笑)
でも、そのおかげで小さい教会やマーケットなんかを見つけられて楽しかったですけど。
ちなみに、ホテルでエレベーターから出たらなぜか部屋があるのとは反対の方へ曲がります。
不思議ですね(いやいや)
なので、直ちゃんもきっとそういう感じなので、秋山さんはきっちり見張ってないと。
可愛い子には旅をさせたら、気苦労が増えるだけです。