■夏の夜 仄かに灯る 後  
  
 直の手料理を食べて、ようやく本当に一息つけた秋山は、洗い物をしている彼女の背中を見つ
めながら壁に寄りかかった恰好で新聞を広げていた。
 しかし、今日はやはり炎天下での労働がきいたようで、半分ほど意識が薄らいでいる。
 それを自覚しながらも、秋山は眠ることは拒否して己を叩き起こしていた。
 明日は休みなので、少しくらい無理をしてもゆっくりと休むことが出来るのだし、それにやは
り気になるのだ。
 部屋の隅でいまだに正体を露わにせずに、存在だけを主張しているあの物体が。
「秋山さん、お茶入れました〜」
 二人分の食器は数も少なくさほどの時間もかからずに洗い終えた直が、湯気の立つ湯呑みを持
って秋山が寛いでいる居間であり寝室でもある部屋へ戻って来た。
 夏なのに熱いお茶。
 普通ならばここは冷えた麦茶あたりでも出てきそうなものだったし、冷蔵庫にもちゃんと小さ
なお茶の入ったクーラーポットが入っている。
 しかし、直の主張曰く、熱いときこそ熱いものを飲む方が身体にいい、ということらしい。
 父親のこともあってなのか、直のそうした健康管理に対する意識は高く、それについては秋山
としても異論を挟むつもりはなかった。
 自分の母親も似たようなことを言っていたな、とそんな風に思い出せるようになった昔の記憶
を、密かに懐かしむ気持ちとともに直の手から湯呑みを受け取ると、秋山は新聞を丁寧に折り畳
んで脇に置く。
「あのですね、秋山さん」
 そんな秋山の正面に腰を下ろした直が改まった口調でそう切り出したのは、隣の部屋から丁度
九時になったことを告げるテレビの音が聞こえてきたときだった。
「なに?」
「明日、秋山さんはお仕事お休みですよね?」
「そうだけど」
 それが? と暗に匂わせるような口調と視線を向けると、直は実は………と言いながらごそご
そと鞄の中から何かを取り出す。 
 そしてそれをずいっと、テーブルの上に置いて秋山の方へと押してきた。
「………夏祭り」
「そうなんですよ。この近くの神社で行われるものなんだそうです。私も昨日偶然、買い物に行
ったら商店街で配られてて」
「そんなのがあったのか」
 あまり自分に直接関わりがなかったり必要と思われないことには関心を払わない秋山が、そう
したものの存在を知らないのは無理もない話だった。
 最近、夜になると何処からともなく祭囃子を練習していると思われる笛や太鼓の音が開け放た
れた窓から流れ込んで来ていたことも、当然ながら秋山が意識して認知したこともない。
 直はなんだろうと気にはなっていたので、チラシを貰ったと同時に、そういうことだったのか
と納得したのだけれども。
「それでですね」
「その祭に、行きたい、か」
「はい!」
「大学の友達でも誘えば?」
 さらりと返された返事に、直の顔が落胆に彩られ、そして僅かに頬を膨らませた。
「誰も行ってくれませんよ、本当にちっちゃなお祭りみたいですし」
「大学生にもなって、女同士でお祭りなんて、ってところか」
 的確に突っ込んでくる秋山に、直はう、と言葉に詰まる。
 が、しかし。
 どうやら秋山が勘違いしているらしいことは、訂正しておかないと、と直は居住まいを正して
からおもむろに口を開いた。
「あのですね、私は、大学の友達にお祭りに一緒に行こう、なんて誘ったりしてないですよ? 
それで断られたから秋山さんに一緒に行って欲しい、なんていうのじゃありません」
 代理とか、そんなんじゃありませんから、とキッパリ言い切ってから、少し考えるように視線
を上の方へと向けながら更に続ける。
「ただ、そういうことが話題になったことがあって、その時に、女同士でそういう所に行くなん
て彼氏なしだって言ってるのと同じだよね、って」
「そう言われたから、言い出しにくかったわけか」
「いえ、それも違います。私は、秋山さんと一緒にお祭りに行きたいんです」
 まっすぐに言い切ると、にこっと直は笑った。
「友達と一緒に行くのも楽しいとは思うんですけど、やっぱり、秋山さんと一緒の方が絶対楽し
いし、それに嬉しいです」
「なるほどね」
 なんともストレートな直らしい発言に、秋山は当たり障りなくそう応じるしかない。
 正直者は最強だなと、改めて思い知らされること度々だ。
「あの、ダメですか? やっぱり、秋山さんお祭りとか、興味ないですか?」
 断ったら、泣きそうだよな、と秋山はじいっと自分からの返事を待って見上げてくる直の視線
を見返しながら、ぼんやりと思った。
 正直に言えば直の指摘するとおり、祭なるものには一切関心が湧かなかった。
 そもそも人の多い場所にわざわざ出かけていく酔狂さも持ち合わせていなかったし、なにより
そういう浮かれた雰囲気の場所には普段に輪をかけてトラブルが転がっているもので、そんな場
所に直が出向けば、どうしてそこまで、と思うほどそのトラブルに足を取られて転びそうな気が
してならない。
 そういうところにまで考えが及ぶ時点で、秋山の出す答えは決まっていた。
 しかし、じいっと見つめてくる顔がそれを言葉へと変換させない力を持って秋山に迫る。
「………………小さい祭ね」
「はい。地元の人しか知らないお祭りみたいです」
「それでも君は行きたいと」
「夜店とか、それなりに出るらしいんですよ。商店街の人たちもお店を出すんだそうです。是非
遊びにきてくれって、いつも言ってるお店の人に言われました」
「それで、行きたくなったのか」
「いえ、それもありますけど………秋山さんと二人でどこかにお出かけしたりすることって、考
えてみたらあんまりないなあって思って」
 こんな会話をしていることそのものが、秋山の答えが当初繰り出すつもりだったものから変化
してしまっていることをはっきりと示していた。
 彼の性格からして、行きたくない、その意思がまったくない、というのであれば、七面倒なこ
とを述べることなくさっくりと拒否を示していただろう。
 だが、それが出来ない。
 出来ない、という時点で彼の最終的な答えはもう決定していたも同然だった。
 それでも即座に彼女が望む通りの返事を返さないのは、秋山なりの複雑な胸の内の表れだった
のだろう。
「………ごめんなさい」
「なんでそこで謝るわけ」
「いえ、秋山さんに無茶なお願いしちゃったみたいなので」
 答えを返すことを渋っている間に、直の方で勝手に想像を働かせて結論に至ってしまったらし
い。
「別に、祭に行くかどうかなんて、無茶なお願いって部類いは入らないだろ。裸で行け、とか言
うのならそうかもしれなけどね」
「って言うことは、行ってもいいって事ですか!?」
 相変わらず、鈍いようで勘の鋭いところを発揮させた直が、ぱっと嬉しそうな表情を見せた。 
 こうなったら、秋山に否、の返事を出せるわけもない。
「休みだしね」
「やった! ありがとうございます!」
 手を叩いて喜ぶ様は子供のようで、それを指摘して揶揄ってやろうかとも考えたのだが、せっ
かくの嬉しそうな様子に水を差すのも大人気ないか、と秋山は出かかった言葉を押し留める。
 そうとは知らず、やったー、秋山さんとお祭り、と節回しつきで繰り返していた直は、あ、と
そこで突然声を上げた。
「よかった、無駄にならなくて」
「なにが?」
「えへへ、実はですね、ちょっとお祭りに行くのに使ってみたいアイテムがあったんです」
 言いながら、直は部屋の隅に今の今まで鎮座していた荷物、秋山が帰宅してからずっと存在の
正体が気になっていたものに近寄って、これです、と示す。
 そしてよいしょ、と随分重たそうに持ち上げて秋山の前に戻ってきた。
 また何を持ち込んできたのやら、と見守る秋山ににこにこと笑いながら直は結び目を解いて、
風呂敷の中身をようやく白日の下に露わにする。
「じゃーん! これです!」
 そんなクラシカルな効果音を口に出してみせる直に、らしいなと思いつつも示されたものを眺
めて、秋山は彼女の意図を即座に知った。
「それ、君のお父さんの?」
「はい、そうです! 折角ですから、これ着て行きましょう、秋山さん!」
 思った通りの提案に、改めて直が持っているものへ視線を送る。
 それは黒にも見えなくもないが、それよりも青みの強い褐返と呼ばれる単色がベースのシンプ
ルなストライプのライン柄が組み込まれた、落ち着いた感じのする浴衣。
 男物であることは一目瞭然だったし、直がそれを持っているとしたら父親のものであると推測
するのは簡単だ。
「俺が着るわけには、いかないだろ」
「大丈夫ですよ! 秋山さん背が高いですけど父もけっこう背は高いんで、心配ないと思います。
それに、ちゃんと手直し出来るように」
 ごそごとと更に風呂敷の中から直は何かを取り出した。
「お裁縫道具も持ってきましたから!」
「それで、そんなに重そうだったのか」
 浴衣が入っているだけにしてはやけに大きな包みで、おまけに直がいくら女性とは言ってもあ
あも重そうに持っているのはあまりに非力すぎるだろうと思っていたのだが、その謎がやっと解
けた秋山は、同時に溜息を吐いてしまう。
 もし、自分が祭には行かない、と断っていたのなら、浴衣はもちろんだが裁縫道具もまったく
の無意味な存在となっていたのだ。
 つまり、直の努力は綺麗に無駄に終わっていたことになる。
「俺に行く意思があるかどうか、確認してから持って来い、って君に言うだけ無駄か」
「秋山さん、何か言いました?」
「いや」
 仮にここで秋山が彼女の行動の迂闊さを指摘したとしても、直は、そうですね、次からそうし
ます、と応えるかもしれないが、間違いなくその次、はやって来ないと確信出来るからだ。
「あ、心配ないですよ。私の浴衣もちゃんとあるんです!」
 これです! と直が取り出したのは女性の用の浴衣だった。
 白ではあるがやや色見のある月白の下地の、紅梅色や牡丹色のピンクの花が散らばる中に、今
様色の金魚が泳いでいる可愛らしいデザインのそれを、直は自分の身体に当てるようにして秋山
に示した。
「お父さんが元気だった頃に買ってもらって、一回しか袖を通してないんです。そのままずっと
しまいっぱなしだったんですよ。また着れて嬉しいです」
「君に似合ってるよ。でも、俺は別にこのままでも」
「だめですよ! 折角なんですから着ましょう、秋山さん! お父さんにもちゃんと話してあり
ますから。誰も着ないでほったらかしにしておいたら、浴衣が可哀相だから是非着てもらいなさ
いって、言われました」
「………そう」
 そんな風に切り返されては、秋山もこれ以上浴衣を着る着ないの論議を続けることは出来なく
なる。
 結果、直の希望通りになることは決定されたわけだ。
「ふふ、見てみたかったんですよね、浴衣姿の秋山さん」
「なんで」
 じゃあ、サイズの確認をしたいから、早速着てみてください、と差し出された浴衣を反射的に
受け取りながら、秋山は直が零した言葉を聞き咎めた。
「いえ、いつも秋山さんラフな恰好してるから、きっちりした恰好するとどうなるのかなーって
興味があったんです。スーツとかだとなんとなく想像も出来るんですけど、着物とか浴衣はちょ
っと想像できなくて」
 楽しみです、と笑顔で言う直に、秋山は今さらながらに手にしているものを身につけることに
ついて躊躇してしまう。
 着た事がない、とは言わないが、しかし好奇心丸出しにした直の前で着てみせるのはどうにも
気恥ずかしいものがあるのだ。
 だが、今さらやっぱりいい、とは流石に言い出すわけにも行かず。
 仕方なく諦めて、秋山は立ち上がってシャツをたくし上げて首から抜こうとした。
「あああああ、秋山さん、いいんです、そのまま、そのまま上から着てください!」
 秋山の行動に慌てた直が、秋山の手が動くよりも早く裾を握った秋山の手を押さえて制止した
かと思うと、悲鳴のような声を上げる。
「………てっきり、見たいのかと思ったけど」
「ちちち、違いますよ! 誤解です!」
「冗談だよ。じゃあ、このままでいいんだな」
「はい!」
 コクコク、と頷いてみせる直に、秋山は人の悪い笑みを覗かせた。
 とりあえず、これでフィフティーということにしてやるよ、と内心思いながら、浴衣を羽織る。
 その時、まるでそれに合わせるようにして、とんとん、とんからり、と何処からか祭囃子が聞
こえてきた。
「あ、お囃子ですよ、秋山さん。なんだかワクワクしますね」
 直が嬉しそうに窓の向こうへと視線を送る。
「君は、楽しそうだね」
「はい! だって、秋山さんが一緒に行ってくれるんですから。それに、浴衣も着てもらえたし、
すっごく明日のお祭りが楽しみです」
「夜店の屋台、とか?」
「はい! ………いえいえ、今のはなしです!」
 素直に返事をしてしまってから、速攻でそれを打ち消し、それ以上秋山から突っ込まれないよ
うに、とばかりに直は彼が身に付けた浴衣の具合を確かめることに集中する。
 どうやら、丈も特に問題はないようだ。
「お裁縫道具、持ってきたど必要なかったみたいです」
 重たい思いをしてまで持って来なくてもよかっただろうに、と秋山はそう思ったのだが。
「でも、ここに置いておくと色々便利ですよね。繕いものとか出来ちゃいますから」
 ポジティブシンキングは、そう言う結論へと至るらしい。
 しかし、そんなに嬉しそうにそんなことを言われても。
 秋山は何か言った方がいいのかどうか悩んで、結局何も言わずに、浴衣から腕を抜いた。
「浴衣のお礼に、明日の祭で何でも好きなもの一つ、奢ってあげるよ」
「本当ですか?! わー、なんにしようかな」
 代わりに口にした言葉に、直は子供のように喜んでみせる。
 そんな些細なことで、心から嬉しそうに。
 ほんのりと、空ろな闇で覆われた自分の心の中に、そうやって直は小さな明かりを灯し
ていくことを秋山はもう、知らぬふりで目を逸らすことはしない。
 一つ一つはとても小さくても、やがてそれはいつか、闇を照らし柔らかく温かい場所を
己の中に生み出してくれることも。
 とんとん、とんからり。
 響く音色は楽しげに。
 そして、夏の夜風がふわりと折から通り抜ければ。
 とんとんからり、とんからり。
 ピーピーヒョロロ、ピーヒョロロ。
 祭囃子が夜空の上を旅していくのを聞きながら、楽しみですね、と秋山の隣に陣取り窓
の外へを顔を出した直に、倣うように秋山も開いた窓の向こうへと視線を投げる。
 優しい居待ち月が、夏祭りを待ちわびる二人を静かに見下ろしていた。







                                               -END-

夏祭りの本番は、なしですが。
そういうお話をあちこちで見かけましたので、そこは割愛(笑)
二人の浴衣ですが、秋山さんの浴衣の色は、かちかえし、といいます。
色としては、本当に黒に近いんですが青です。紺色よりも黒に近いかな。
直ちゃんの浴衣の下地の色は、げっぱく、と言いまして、これもまっさらの白ではなく
ほんのり色合いを感じる白です。
着物は、普段から身につけていてこそ体に馴染むものなのですが
浴衣などであれば割りと気楽に着こなせるかなと。
これはドラマ版の秋山さんなので、正直、浴衣似合うのかしらん、なんですが(笑)
松田君が花男で着物着てたのを思い出し、うーん、いけるかなあ、と思いまして………
二人揃って着たら可愛いなあと思うんです。
戸田ちゃん直ちゃんは、浴衣着てカランコロンさせて秋山さんを連れまわしてあげればよし。
人ごみは危険が一杯だから、松田秋山さんは、ひたすら苦労することでしょう。
でも、笑顔一つでお釣がきます。よかったね。(こらこら)