■太陽は知っている    
  
 目の前を、クラクションを叩き鳴らすようにして、車が走り抜けていく。
 何をやってるんだ、馬鹿野郎、ぐらいの罵声が付添い人として一緒に聞こえてきそうなほどの
賑やかなクラクションの音に、当然ながら周囲の視線も音の原因となったものへ集まる。
 ごくごく自然な成り行きだろう。
 そうして衆目に晒されることとなった事の発端であるもの、この場合は人間であるが、その人
物は集まった視線に居た堪れなさや恥ずかしさといったものがまず最初に浮かんで、とにかく一
刻も早くそれらの届かない場所へ避難するべく逃亡する、といったような行動に出るのも、よく
あるパターンの流れに違いない。
 しかし、今回はそのすべてがイレギュラーだった。
 クラクションを叩き付けられた、衆目の視線を浴びる被害者、いや、この場合はどちらかとい
えば加害者となるのかもしれないが、とにかくすべての発端となった当事者が、まったく現状を
理解しておらず、加えて現状に至るまでの経過も殆ど理解していないのだ。
 ゆえに、ここで本来起こるべき出来事、即ち、この場からの遁走という行動すら取らずに、当
事者はただただ目をまん丸にしてきょとんとしている、という状態を生み出してしまっているの
だが、その様は、ある意味で傍観者には非常に愉快なものだったかもしれない。
 しかし、当事者の同行者、こうなるに至った過程のすべてを唯一理解している人物は、愉快ど
ころか最悪だった。
 ここが往来のど真ん中でなかったのなら、それこそ普段は滅多なことでは使わない腹式呼吸法
でもって当事者を叱り付けていたことだろう。
 そうせずにいられたのは、何度も言うが、ここが往来のど真ん中であり、衆目の集まっている
状態であり、尚且つ、肝心の当事者の状況理解がまったく追いついていないからだ。
 つまり、ここで怒りを勃発させたところで、肝心の当人にはその怒りの意味が理解されず、周
囲から視線をぶつけてくる連中の恰好の注目の的とされて、とにもかくにもまったく面白くない
状況に追い詰められるのは自分であると分かってしまっている以上、どうしたって怒りを発露さ
せることはできなかった。
 それだけのことが一気に脳裏を駆け抜けた、その頭脳の明晰さは改めて語るまでもないかもし
れないが、実は一番褒めるべきところはそこではなくて、相変わらず状況をさっぱりと理解して
いらっしゃらない当事者に対して、こうなってもまだ付き合っていくことの出来る精神的なタフ
さだったのかもしれない。
 もっとも、そうされたところで、まったく嬉しくもなければ、喜びもしないだろうけれども。
「あの」
 とにかく、当事者にこの状況を打破する意思がなく、このままの状態を甘受するつもりである
とするのなら、自分がどうにかするしかないのだと思い至った同行者が当事者を半ば引きずるよ
うにして往来のど真ん中、人々の視線の焦点から逃れるべく普段の倍はあるだろう歩幅で歩き出
し、それを追いかける視線をもかなぐり捨てるようにして、通りを一つ行ったところで角を曲が
りその先へとさらに進んでいった。
 もちろん、何処へという明確な目的地があったわけではないだろう。
 その証拠にその目は何も見ていなかったし、ただただ足を動かすことに一生懸命だった。
「えーっと、秋山さん?」
 二つ目の角を曲がり、完全に大通りから外れた静かな路地に入ったところで、ようやく当事者
すなわち秋山をこうした行動にとらせた張本人である直が、遠慮がちながらも声をかける。
「どうしちゃったんですか?」
「………………それを、大真面目に言っちゃうところが、君の恐るべきところだよ」
「え?」
「信号、ちゃんと見た?」
「見ましたよ? 青だったから渡ったんですけど」
 それが? と本気で首を傾げる相手に、秋山は声もない。
 街中で、偶然出逢って。
 秋山さん!! なんて大声で呼びかけられただけでも結構な恥ずかしさだったけれども。
 それどころじゃなかった。
 なにしろ、嬉しそうな顔をしてかけてくる彼女めがけて、突っ込んでくる車の姿が同時に目に
入ってしまったのだから。
 しかしこの場合、彼女に突っ込んでくる、と表現するのはあまりにも車の運転者に対して申し
訳ないだろう。
 なにしろ、直の方から車に突っ込んでいったのだ、あれは。
 彼女と車が仲良く正面衝突して勝負をする前に、その首根っこを捕まえて引き寄せられたのは
紛れもなく、幸運の賜物だった。
 もしも秋山が後一歩でも遅れていたのなら、今頃こうして会話をしているどころか、間違いな
く病院へ搬送されている真っ最中だったろう。
 運が悪ければまだアスファルトの上に転がって、だらだらと血の海を作っていたかもしれない。
 そこまで考えて、秋山はぞっと背中が冷たくなった。
 まったくもってありがたくもない話だし、現実にならなくて心底よかったと思うのに。
 目の前でニコニコしている女はこれっぱかりもそれを、その事実を、己が死の淵をしゃがみ込
んでおもいっきり身を乗り出し覗き込んでいたなどと、思ってもいないのだから。
 怒る気力もあればこそ、秋山はひたすら疲れ果てていた。
 おまけに、直がニコニコしている理由は『約束もしていないのに、秋山さんに会えた』喜びで
目いっぱい満たされており、信号を見誤ってまで自分のいる側の歩道へと駆けて来たのも、『せ
っかく会えたんだから、早く行かなくちゃ』と思っていたからこその行動だと分かってしまって
いればもう、秋山にどうすることが出来ただろうか。
「………秋山さん、あの、お仕事大変なんですか?」
「なんで」
 聞かなくても、そう言い出す理由など読めたけれど。
「凄く、お疲れなように見えるので………」
 誰が俺をここまで疲れさせたと思ってるんだ、誰が!
 秋山はもう場所もなにもかも忘れて、訴えの声を上げたい衝動に咄嗟に駆られてしまった。
 もちろん、そんなことはしなかったけれども。
「おまえは………」
「はい?」
「………ほんとーに、どうにかしてやらないと拙いんだろうな、世間的に」
 そして何よりも、自分のために。
「何をどうにかするんですか?」
 きょとん、とした顔で尋ねてくる、直のそれは本気のものだ。
 秋山にはもう何も言うべき言葉は見つからなかった。
「で?」
「はい」
「何か用だったのか?」
「いえ?」
「あ、そう」
 にこにこと、笑うその顔がちょこんと傾く。
「秋山さんはこれからどうするんですか?」
「別に、買い物済ませたら帰るだけだけど」
「あの、じゃあ、ご一緒してもいいですか? 良かったら、御夕食、作らせて下さい!」
 そういって、直が秋山のアパートを訪ねてくるのはこれで何度目だろうか。
 秋山はそのたびに気を使わなくていい、と言っているのだがそれが功を奏したことは一度も
なかった。
 本心から秋山がそれを言っているのなら敏感に感じ取って直も引き下がったかもしれないけ
れども、断る声には完全な拒絶の気配がないことを、どうやら妙なところ勘の鋭い彼女の何か
が見抜いているらしい。
「残念ながら俺のアパートの冷蔵庫は空っぽだけど」
「え? よかった! 三日前に御飯作りに行ったときに、色々作り置きしておいたの、食べて
貰えたんですね!」
「捨てるのももったいないし」
「ありがとうございます! 大丈夫です、お買い物していけばいいんですから! じゃ、さっ
そく行きましょう!」
 元気よくそう言い放って、直はくるっと踵を返して商店が並ぶ通りへと向かおうとした。
 それを、がっし、とばかりに再び秋山の手が襟元を掴んで、止める。
「おまえは」
「………えーと?」
「ちゃんと前を見ろ」
「あ、はい、赤でしたね」
 すみません、と項垂れたその後姿に、秋山はもう全身の力が抜けるくらいの溜息を落とす。
 駄目だ、目を離したらこいつはさっさと天国への階段をそれこそスッキプしながら上ってい
くぞ。
 そう思ったら、もう最後だった。
 諦めるしかなかったのだ。
「いくぞ」
「あ、はい」
 先に歩き出した秋山に遅れまいと、直は彼の服の裾を軽く掴んで、ととと、と小走りに歩き
出す。
 それに気づいて、少しだけ歩調を緩めて。
 鳴り響く、クラクションが遠くから聞こえてくる。
 あれがこの子の上に落ちてこないようにするためには。
 もしかして、本気で見張っていないといけないんだろうか、と思った秋山の見上げた空の上。
 午後の日差しを落とす太陽が、それが正解、とばかりに笑顔で輝いていた。
 それはまるで、どこかの誰かさんのように。





                                                      -END-

たまに信号が青になっても、ぼけっと渡らずに突っ立ってる人がいます。
はい、私です。
起きていますが、頭の中で色々巡っているとそうなります。
大概、ネタが回ってますが。
同様に、起きていて、しっかり次は自分の降りる駅、と分かっていながら
気づいたら隣駅に着いていた、ってこともあります。
自分の内側でくるくるしてると、周りは見えていても見えなくなるわけで。
直ちゃんもそういう感じかなあと。
私ほど酷くはないですかね………?


誤字をこっそり修正いたしました。ご指摘ありがとうございます(照←いや照れる場合ではない)