■La scala di Paradiso 〜エレーン〜 2
コツコツ、コツコツ、と靴音がやけに響く従業員専用の簡素で天井に取り付けられた蛍光灯だ
けがやけにその存在を主張している。
外の喧騒に比べて、そこは妙な静寂があった。
直はそれらの気圧されたかのように、いつもの饒舌な様子はすっかりなりを潜めて秋山の腕に
ぎゅう、としがみつて離さない。
彼女の知る世界とはあまりにも違うことが、彼女を怯えさせているのだろうか。
ちらり、とその顔を見下ろして、きょろきょろとあっちへこっちへと忙く視線を動かしてい
る様に、それでも好奇心は抑えられないらしい様子に思わず秋山は笑いが漏れそうになるのと、
なんとか抑える。
奥に進むにつれ、時々、見るからに妖しい雰囲気を漂わせた男女の二人連れと廊下ですれ違い、
そのまま闇に吸い込まれるようにして消える様子を目にしたが、直はただそのあまりにも仲睦ま
じい様子に頬を赤らめるばかりで、その横で秋山が小さく嘆息していたことにも気付かない。
「な、なんか大人の世界ですね」
直がそう言うに至っては、溜息すら出なかった。
そうしてどれくらい進んだだろうか。
周囲の様子がそれまでと変わり、落ちついてはいるが独特の雰囲気のある扉が廊下の両側に並
んだ場所へと辿り着いた。
その一つの前に立った黒服の男が、軽くノックをする。
中から返事が返ったのだろうか、少し離れて立っていた秋山たちには聞こえなかったが、男は
すうっと扉の前を離れ秋山たちに向かって軽く会釈すると、その元来た廊下を戻っていってしま
った。
「………入っていい、ってことでしょうか」
「多分ね」
おたつく直の頭をぽん、と軽く叩くと、秋山は今一度ノックをした後で、返事は待たずにそれ
押し開く。
先に入っていった秋山の後を、そおっとおっかなびっくり、といった表現が一番似合いそうな
様で追いかけた直は、その背中の脇から中の様子を窺い見た。
広くも狭くもない、シンプルで殆ど無駄なものなど何もないと言えるやんわりとした間接照明
が灯った部屋の中のその一番奥に大きな鏡のついた化粧台がある。
そしてその前に座っている女の背中。
「あ」
流れるような黄金色の川の、それには見覚えがあった。
そしてゆっくりと振り返った顔の、深い深い青の水底を湛えた瞳にも。
直は迷わず秋山の背後から飛び出していた。
「あああああ、あの!!」
「落ち着けよ」
「は、はい。あの、ええと」
慌てて言葉出てこない直の頭をぽん、と叩いてやりながら、秋山はその彼女が見つめている相
手に自分も目を向けてみる。
美しい、女だ。
秋山は直がとっても綺麗、と言った言葉が真実であったのだと知る。
人の美醜を決める感覚は時代背景や地域環境によって大きく異なるものだったが、少なくとも
今目の前にいる人物は、日本人や欧米の感覚から見れば美しい、女だ。
顔の作りもその身体のラインも、纏っている雰囲気からなにから、万人が万人ともに美しい、
そう評価するだろうものを持っている。
黙ってそこに立つだけで、醸し出される何かがその周囲に独特の何かを生み出す存在。
だがそれは、秋山の警戒心をより深めるものでもあった。
こうした場所で、夜の底の闇の中に咲く花として、あまりにその女は美しすぎた。
こんな世界ならば艶やかなものを裏側に秘めた美しさは、一つの罠だ。
なによりもこの女は。
(………それを、知っている)
己の外見の持つものを、十二分に理解し、把握している。
その有用な使い方さえも。
秋山がそうして、目を細め眉間に僅かに皺を寄せるのを、彼の背を向けている直は気付けなか
ったが、女は秋山の表情に彼の思考を見て取ったかのごとく、笑みをもらした。
それさえも、秋山はよからぬ何かを感じずにはいられない。
「あの、えっと」
一方で直も、純粋に綺麗な人だなあと改めて目にしてそう実感し、思わず見とれてしまいそう
になった自分に気付いて慌てて何か言わなくちゃ、と口を開いたのだが、出てきたものは意味不
明な言葉の羅列。
女はじっとそんな直を見つめていたかと思うと、すうっと音も気配もさせない所作をみせて、
化粧台の引き出しから何かを取り出た。
そしてゆっくりと立ち上がると直に向かって歩み寄り、それを差し出す。
「?」
なんだろう、ときょとんとして目の前の封筒と、そしてそれを手にした女の顔を交互に見て途
惑う直だったが、つまりこれは受け取れ、ということなんだろうと理解し、ゆっくりと持ち上げ
た手で封筒の端を掴んだ。
封はされておらず、美しいすかし模様の入った封筒を直はいいのかしら、と思いながらも開け
て中身を確かめる。
「あ」
そこには五枚の、同じ柄の紙が収まっていた。
直が、昨日彼女を殴った男に渡したものと同じものが。
「あ、の」
「your money」
簡単な英単語が返される。
流石に英語の苦手な直でも、彼女が何を言いたいのかは分かり、少し躊躇った後でありがとう
ございます、とそれを素直に受け取ることにした。
が、直がありがとうございます、と言った途端に、女は目を丸くして驚いた表情になる。
あれ、私間違ったかしら、それとも通じなかったのかしら、と直はたじろぎ、秋山を見上げた。
が、秋山はそんな直に苦笑めいたもを見せるだけで説明はなく、ぽんとその頭に手を置いただ
けで女に視線を戻し何かを英語で話しかける。
あまりにも流暢過ぎる発音に、直にはちんぷんかんぷんだったが、当然それは女に伝わり、そ
れにまた少し驚いたような表情を見せた後で、かすかに、笑った。
「あの、秋山さん?」
「おまえがなんで謝るのか、分からないらしいから説明しただけだ」
「それでどうして、あんなに笑ってるんですか?」
「珍しい人ね、だと」
「め、珍しいですか」
そうなのかしら、と訝るように直が首を傾げれば、さらに女は笑みを広げる。
だが、それと同時に秋山は女へと背を向けた。
「さて、これで用事は済んだな、帰るぞ」
「あ、あの、ちょっと待ってください秋山さん!」
「なに」
踵を返そうとした秋山は、直の思わぬ強い声に引き止められた。
あまり、いや相当に良くない予感がある。
こんなときの直は、秋山の忠告を殆ど聞き入れないのだ。
正しくは、その忠告の意味するものを理解していないともいえるのかもしれないが。
「あの、私の言ったことを笑ったってことは、日本語、分かるってことですよね?」
「………ああ」
しまったな、と秋山が自分の失言を舌打ちしていることに気付かず、直はくるっと女の方へと
顔を向けた。
「あの、すみませんでした、私、余計なことをしちゃったみたいで………でもあの、私、本当に
あなたのこと馬鹿にしたとかそういうことじゃなくて、ただ、あのままだと殺されちゃうんじゃ
ないかと思って、それで」
ああ、何を言っているのか分からない、これじゃ。
直は上手く説明できない自分に悲しくなりながらも、必死に言葉を探した。
英語も駄目だけれども、日本語でも駄目なんて、情けないにもほどがある、と直は目じりにじ
んわりと熱いものが滲むのを感じる。
そのときだった。
「don't mind」
柔らかい声が、歌うような響きでそう言うのを聞いて、直はぱっと顔を上げる。
「あ、あの、えっと」
見れば、優しい笑顔がそこにあった。
よかった、とその表情にほっとしたその後で、はっと直は肝心なことを思い出す。
すっかり忘れいたのだが、そもそもどうして自分が彼女の家に訪ねていったのかといえば、そ
れは。
「あの、ありがとうございました!」
思い出した途端に、とにかくお礼を言わなくちゃ、と思う気持ちが先になり、直は何がなのか
の前置きもなしにそれだけを抜き出して言っていた。
当然だったが、相手の女はなんのことやら、といった表情で驚きを示しており、秋山は直の後
ろで額に手を当てて、あーもう、と言わんばかりのポーズをとっている。
直だけが、あれ? 私なにか間違ったかしら、とお礼の言葉を口にした勢いのままで、ええと
と二人の様子に途惑うばかりだ。
「あのな」
「はい?」
「おまえは何のお礼が言いたかったわけ」
「え? あ、 ああ! すみません、あの、この前、酔っ払っちゃった友達を介抱して頂いて、
救急車呼んで頂いて、あと、男の人たちに絡まれて困ってたの、助けてもらって、本当に、い
っぱいありがとうございました! そのお礼が言いたくて私、あの日、ご自宅まで押しかけて
いっちゃったんです」
ぺこり、と頭を下げた直に、女はさらり、と金色の髪を揺らして少しだけ首を傾けた。
直を見る彼女の目には、驚いたような労わるような、懐かしむような、複雑な色が浮かぶ。
それはほんの僅かの間の出来事だったが、秋山は見逃さなかった。
一瞬だけ現れたそれ、がいったいどんな意味を持っているのか、そこまでは流石の秋山も推
測するにも情報が足りない。
そこで、女は視線を直から秋山へと移した。
なんだ、という意味合いを含めた視線を返せば、女の口からは直には理解できないであろう
異国の言葉が綴られる。
それを聞いて、ふと秋山は小さな違和感を感じた。
が、今はそれを追及している場合ではないな、と詮索を止め、女の言葉が終わるのを待って
直へと視線を落とす。
すると、何を言われたのかしら、と目をまん丸にして通訳お願いします! と言わんばかり
の顔をしている彼女と目が合って、思わずまた失笑してしまいそうななった。
餌を待っているひな鳥のようだった、とは胸の内に止め置いて。
「礼を言われるほどのことはしていない、だとさ。店で問題を起こされるのは困るし、おまえ
らを引っ掛けようとした男たちはこの界隈じゃけっこう鼻つまみものの集団の仲間らしいよ。
で、どの店でも問題を起こす厄介者扱いらしいな」
「そうだったんですか………でも、私や友達が助かったのは事実ですし、色々やって頂いたこ
とには変わりありませんから、お礼、言わせてください」
直が秋山の聞いても重ねて礼を述べて頭を下げるのを見て、女は驚いた顔にも笑みを乗せて
今度こそ困った表情になった。
「それで、あの、ぜひお礼をさせて頂きたくて!」
秋山は予想通りの直の言動に、天井を仰いでしまう。
自分にも覚えのある言葉だった。
あのゲームで助けてもらったお礼を、と幾度となく言われ、無視しても無視しても諦めるこ
となくメールやら電話やらで迫ってきたことを思い出し、笑うに笑えない。
結局、自分は直のその必死の行動に負け、そして彼女に対する自身の気持ちの変化を認めざ
るを得なくなり、こうして今に辿り着いた。
秋山にしてみれば予想もしなかった場所に、今立っているといっていい。
自分にとっては、直の行動やその心は、まさに得難き生涯最大の幸を齎したものだ。
しかし、彼女と自分とではその置かれた状況も立場も何もかもが違う。
さてこの女はどうするかな。
秋山は直を制してこの場を立ち去ることが不可能であると十分に承知していたので、彼女を
説得することはせず、黙って成り行きを見守ることを選んだ。
「………」
女は暫くの間、沈黙を守った。
まるで何かを見透かそうとするように、じっと直を見つめている。
直もまた、自分を見つめている女の顔から視線を逸らすことなく見つめ返していた。
じっと、黒い瞳の中に映る自分を見て、果たして女は何を思ったのか。
「Ellen」
何かを言いかけた彼女の唇が動いたそのとき、軽いノックの後で秋山の背後の扉が開いた。
その向こうから顔を出したのは、さっきとは別人のこの店の従業員のようで、支配人かなに
かその辺りだろうと秋山は目星を付ける。
彼は英語で話しかけ、彼女もまた英語で幾つか返事を返すと、ぱたんと扉は閉じられた。
「ええと、あの?」
「彼女の出番らしい」
「出番?」
なんのことか分からず目を丸くするばかりの直に、秋山は何処まで説明したものか、と少し
考えてしまう。
とにかく彼女は仕事なのだから、もう帰ろうと促すのが一番だろうかとも思うのだが。
問題は、それで直が納得するかと言う点だ。
女はそんな二人の会話に、この日初めて笑って見せた。
くすっと僅かに表情を緩めるだけのものだったが、それは彼女の美貌に僅かながらの幼さを
含ませて寧ろさらに見る者をはっとさせる何かがある。
「お仕事、ってことですよね?」
「そうなるな」
お礼はしたいが、仕事の邪魔をするわけにはいかない。
かといって此処で帰ってしまったら、改めて訪ねてくることは出来そうもない、そんな予感
がして、直は困ってしまった。
どうしたらいいかしら、と眉を寄せて、ううう、と唸る。
その姿に、笑ったのはやはり、女の方だった。
《面白い子ね》
笑いながら言った言葉に、秋山が顔を直から女へと移す。
女の言葉遣いに、やはり秋山は違和感が拭えなかった。
《あなたその子の彼氏? だったらきちんと説明してあげるのね。あの夜のことは別にお礼な
んてしてもらうことじゃないのよ》
秋山が僅かに目を眇めたことに気付いているのかいないのか、女はそう言って、秋山の隣で
困り果てている直をちらりと見た。
対して、秋山は軽く肩を上下して見せると小さく息を吐く。
《そうしたいのは山々だが、こいつは頑固でね。説得できるなら最初からこんなところには連
れて来ない》
《ああ、あなた此処がどういうところか、分かってるのね?》
さして驚く風もなく、女は秋山を見た。
《少なくとも、こいつには無縁の世界だな》
秋山が無表情な声で返すそれを、女はにこりと笑って受け流した。
静かだが、そこにはなんの情動も存在しない。
少しの間をおいて、女は口を開いた。
《男を連れて来いと言ったけれど、まさか貴方みたいな男を連れてくるとは意外だったわ》
《俺みたいな、か》
《少なくとも同じ場所に咲く花ではないわね》
女の目の鋭さに、秋山はじっと見つめ返した。
こんな世界にいる女だ、それなりに目端は利いても当然だろう。
だが、それ以上の何かがあるように思えて、秋山はそれが何かを見抜こうとするようにその
顔を見据える。
ふふ、と小さく笑う音が響いた。
秋山の意図するところを見抜いている、そんな笑い方だ。
《お礼がしたい、その気持ちは嬉しいけれど、気持ちだけで結構だわ。どんな花にも花開くに
はそれぞれ似合いの場所があるものよ。その子にはもっと太陽の光があふれた場所がいいでし
ょう》
だが、口を開いて発した言葉は、それまでの会話とはまったく無関係のものへと逆戻りした
ものだった。
返事も待たずに掛けてあったストールを手に取り、慣れた仕種でそれを肩へと掛ける。
《こんな世界を見たら、二度と近寄らないでさっさと逃げ出すかと思ったけれど》
《こいつを此処に呼び出したのは、やはりそれが目的か》
《普通の女なら、好き好んでは来ない場所でしょう》
《生憎と、あいつには此処がどういう場所か察するだけのスキルはない。それに根本的に人が
いい上に、常識って枠からは大きく外れてるんだよ》
秋山がそう言った途端、女は瞠目し、そしてストールで口元を押さえながら笑い出してしま
った。
その笑いが意味するものを正確に理解してしまえる秋山は、言い返す言葉もなくただ憮然と
するばかりだ。
自分で言っておいてなんだが、それは秋山にしてみれば重い現実問題なのだから。
その一方、直は直で、二人が交わしている異国の見知らぬ言葉についていけず、ひたすらヒ
アリングをしているものの、ただ困惑の表情を深めていく。
何を話しているんだろう、なんで笑われたのかしら。
そんな気持ちがそのまま顔出ている。
直の素直すぎる態度が、女の笑みを深くするばかりだ。
《そう、あなた苦労してるのね》
この手合いの気遣いの言葉を向けられることに、いい加減秋山も慣れていた。
直との付き合いはまさに忍耐を試され続けることに他ならず、それについては彼女とこの先
一緒にやっていくことを決めた時点で覚悟はしていた。
が、こうして改めてそれも初対面の相手から言われるのは、やはり憮然とするものがあり、
それを隠す必要を感じなかった秋山はそのまま女を軽く睨む。
それを受けて、女ははんなりと笑ってみせた。
同時に、危険を知らせるシグナルが秋山の脳裏を走る。
が、シグナルの意味までは分からない。
《じゃあ、彼女にも分かりやすいように説明してあげましょうか?》
なにを、と問いかけることは出来なかった。
すうっと音もなしに動いた彼女の細く白い腕が直の目の前を横切り秋山の首に回る。
まずい、と思ったときには、すでに遅かった。
とてつもなく間近に迫った女の瞳は、生粋の青で深い湖のように底がしれない。
ほのかにその身体から漂ってくる香りは、きつ過ぎることなくやんわりと彼女のイメージに
よく合うもので、甘く秋山の周囲に漂った。
彫刻師がその願望を写し出した様な身体のラインは、まさに男のそれをなぞるようですらあ
って、けして押し付けるようなこともなく、けれど逃がすこともないように、寄り添ってくる。
完璧だった。
女がみせた動きもその身体の使い方も完璧に、逃げる機会を殺してみせた。
秋山は舌打ちするしかない己の失態に、眉間に深い皺を寄せる。
失敗したのだと気付いたときには、もう手遅れだった。
シグナルが点灯した時点で、警戒しておくべきだったものを。
だがどんなに悔やんだところで、起きてしまった事実は変えられない。
秋山は自分にぴたりと身体を寄せた女の向こうに直の姿を見る。
そこには大きく目を見開いて、驚きを顕わにした表情を浮かべた顔が見えた。
ああ、もうじき。
あの大きな目に涙が浮かび上がるに違いない。
瞬時にそこまで思い至った秋山は、己の浅はかさを改めて呪った。
やはりこんな場所には、来るんじゃなかった、と。
-To be continued-
妙なところで終わってますね(笑)
女、女って、一度もちゃんと名前で出てきてないし………
店の人には名前で呼ばれてましたけど。
全体で何話くらいになるのか、皆目分かりません。
書きたいこと書けたら終わるかな?(こら)
先に直ちゃんの試練か、秋山さんの試練か。
あ、でも試練って別に浮気だとか、エレーンが秋山さんと………
なんてことではございませんよ〜。
私の出す第三者キャラって根本的に敵キャラにはならない傾向があるようです。