■La scala di Paradiso 〜エレーン〜 3    
  

 伴奏はピアノだけの、緩やかなバラードが流れる。
 歌声は高くもなく低くもなく、柔らかにそして静かに緩やかに店の中を漂うように広がってい
った。
 酒を愉しむ人々の間を邪魔することなく過ぎてゆくそれは、意識することも必要としないほど
自然に耳の奥へと辿り着いてひどく心地がよい。
 あまりにも馴染み過ぎることが逆に恐ろしいほどだと、秋山はステージの裾に腕を軽く組んだ
格好で立ったまま、思う。
 いわゆる芸能界にいるような歌手とは、一線を画している歌声だった。
 その歌声はあまりにも自然に過ぎて、あの華やかな世界では黙殺されるものだったろう。
 カチャリ、カチャリ、と軽く触れ合うグラスの音、シェイカーを振る音や、コポコポとボトル
からグラスへと注がれるワインの音。
 それらが様々なアルコールの馨りと相まって、醸し出された独特の淡く薄暗いともいえる明か
だけに照らされた海の底のような店の中を満たしていくのを、さらに深まらせる歌声。
 まるで世界から切り取られて、ここだけは終焉のその先の果ての終着駅へと到達している場所
ではないのかと、思わせるような空間。
 およそ、こいつには不似合いな世界だな、と思いながら秋山が向けた視線の先には、まるで魅
入られたようにしてじいっと初めて目にするのだろうそれを見つめる直の姿があった。
 わずかに頬が紅潮しているように見えるのは、気のせいでもなければ明かりのせいでもないの
だろう。
 彼女にとって、こうした世界とは未知なる好奇心という誘惑が満ちたものなのだろうから。
「おい」
「………え? あ、はい!」
 思わず大きな声で秋山に応えてしまった直は、次の瞬間には従業員と思われる黒服の鋭い視線
に射抜かれて、すみません、と小さく萎縮してしまった。
 すっかり歌と店の雰囲気に飲み込まれて自分がどこにいるのかも忘れてたな、こいつ、と秋山
は直らしいポカにわずかに失笑をしつつも、極めていつもの通りの無表情なそれのまま直の頭の
上に軽く手を置く。
「いつまでここにいるつもりだ?」
「え、えと」
「もういい加減帰らないと終電がなくなるぞ」
「え、もうそんな時間なんですか!?」
「時計見てみろ」
 秋山に言われて、直は慌てて自分の腕時計に視線を落とし、あ、と小さく声を上げた。
 確かにそこに示された時間は終電がなくなるまであまり時間がないことを教えており、自分が
時間を忘れるほど夢中になっていたことに気付いて顔を赤くする。
 が、同時にあることを思い出し、ぷうっと今更ながらも頬を膨らませて見せた。
 それを見て、秋山はやれやれとばかりに肩を竦めるような仕草をする。
「………まだ怒ってるのか、おまえ」
「怒ってなんていません!」
 立派に怒ってるだろう、それは、と思ったが、余計な突っ込みを入れれば反って依怙地にさせ
るだけだなと判断し、言葉にはしない。
「言っておくけど、さっきのあれ、おまえが思ってるようなことはしてないからな」
「わ、私が思ってるようなことって」
「おまえ、何を想像したわけ」
「だ、だって、どうみたって、あれは、キ、キスして………」
「ない」
「………え………」
 潤みかけた目をきょとんと大きく丸くして、直はどこか悔しげな秋山の顔を見上げた。
 仕方ないとばかりにしぶしぶと秋山は言葉を継ぎ足していく。
「あのな、あの女はそっちのプロなんだよ」
「そっちの、プロ?」
 秋山の言っていることがまったく理解できず、直は答えを求めるようにじいっとその顔を見つ
て言葉をそのまま繰り返してみせる。
 その目に負けたのか、はたまた何かを諦めたのか、溜息一つ落とし軽く肩を竦め、やはりどこ
となく納得のいかないような表情を覗かせて、秋山はやや投げやりな口調で言葉を継いだ。
「courtesane、って言っただろ、彼女自身が。商売品を安売りなんて絶対にしないんだよ」
 秋山が口にしたそれは、ほんの少し前、今舞台に立って歌声を奏でている女性の口から聞いた
ものだったが、実のところ直にはそれがどういう意味の言葉なのかまったく分かっていなかった
ので、改めて耳にしてもやはり首を傾げてしまう。
「あの、秋山さん」
 知らないものは知らないわけで、考えたところでわかるわけもない。
 直は初めて耳にした単語を数回反芻した後で、秋山に視線を戻した。
「クルチザンヌ、ってなんですか?」
 恐らくそう来るだろうと思っていた質問が予想通りに投げて寄越されて、秋山は小さく嘆息す
る。
 どう説明したものか、と逡巡するように視線が僅かに床を走った。
 一言で済ませられる簡単極まりない単語を言えばそれですむことなのだが。
 それは直にとってはとてつもなく異質な、そして無縁の世界のものだ。
 言葉としては知っているのだろうが、それを改まって説明するというのは、どうにも頭が痛い
話だった。
 改めて、自分に手を伸ばしてきた女の顔にあった含むような笑みが忌々しくなる。
 彼女はこれを狙っていたに違いないのだ。
 何も分かっていない直に、ここがどういう場所であり彼女がどういう人間であるのかを理解さ
せ、そしてここから遠ざける役目を、自分に押しつけたのだと分かっているからこそ、秋山の心
中はさらに複雑な色をもつ。
 しかし今更何を悔やんでも、現状は何一つ打開されない。
 仕方がないか、と秋山は腹を括ることにした。
「おまえ、椿姫って読んだことあるか?」
 とはいえ、流石に直接的な言葉をいきなり口にするのは憚られたのか、彼の口からまず飛び出
したのは、それだった。
「椿姫ですか? ええと、それって、たしか、オペラになったお話ですよね? きちんと読んだ
ことはありませんけど、だいたい知ってます。主人公の女の人は好きになった人と最後に死に別
れてしまうんですよね」
 秋山の意図を知る由もない直は、記憶を探るようにして答える。
「まあ、そうだけど。その主人公の椿姫が、どういう仕事してたかは、知ってるのか?」
「はい、確か、高級娼婦、って呼ばれるお仕事だったと」
「それがどういう仕事なのか、は分かってるわけ?」
 秋山さん、さっきから質問ばっかりだな、と思いながらも、直は素直に頷いた。
「だいたい半分くらいは」
「半分ってなんだそれ」
「言葉の意味としては分かるんですけど、高級って言葉がどういうことを指すのかそれが分から
ないんです」
 困ったように眉を寄せる直に、ああ、と秋山は納得したようだった。
「要するに、高い教養と気品、立ち居振る舞いまで貴婦人クラスのものを持っていて、相手にす
る人間もそれなりの地位や階級や能力を持った者を自分で選ぶことができる、そういう娼婦のこ
とを、高級娼婦って呼んだんだよ」
「そうなんですか!」
「そして、その高級娼婦のことを、クルチザンヌだとかクルチザーヌ、ココット、オリゾンタル
なんて呼び名で呼ぶんだ」
「ああ、クルチザンヌってそういう意味だったんですね」
 やっとわかりました、と嬉しそうに言った直だったが、新しく得た知識を改めて頭の中に巡ら
せているうちに、だんだんと表情が変わっていく。
 それを、秋山は黙って見るともなく見ていた。
 クルチザンヌ、とは高級娼婦のことを意味している。
 そして秋山にキスをしたように見えた、あの女は自らのことを示して、直に向かい最上の笑み
と共に告げた言葉も、courtesane、即ち、クルチザンヌ。
 つまり、それは。
「あ、えっと」
 ようやく理解が行き渡ったらしい直に、秋山はこれで分らなかったらどうしたものか、という
心配は払拭されたことを知り、小さく安堵するような息を吐く。
 もちろん、それですべてが終わったわけではなく違う意味での厄介事はまだ続いていることは
分かっていたが最大の難関はクリアした、と言えるだろう。
「じゃあ、あの、エレーンさんって………」
「その高級娼婦なんだろ。自分でそう言ったんだ」
「で、でも歌手なんじゃないんですか?」
「副業ってところじゃないのか? まあ、所詮高級娼婦なんて言っても、中世の頃の貴族社会と
今の社会じゃ仕組みも成り立ちも違うからな、その言葉の含む意味合いもだいぶ違うものになっ
てるとしても不思議はないだろ」
 直は、目をまん丸にして、慌てたように舞台の裾の幕の隙間から舞台に立つ女性、物憂げな瞳
をしたエレーンを凝視する。
 わずかの明かりの中に、ただ立っているだけなのに。
 独特の雰囲気がその周囲にはあった。
「じゃあ、エレーンさんは、歌手で、高級娼婦なんですね」
 直の声の調子がいつもと全く変わらないままであることに、秋山は僅かながらに目を細めてそ
の背中を見つめる。
 そんな予感は、あったのだ。
 彼女の性格をよく知っているのであれば、どんな結末に到達するのかを想像するのはそれほど
難しいことでもない。
 ただ、その多くは秋山には到底理解しがたい彼女独特の価値観と世界観、道徳観念や思考理論
に基づいていて、予測もつかない場所に軟着陸してみせるものだから非常に苦労させられること
になるのだけれども。
「なあ」
「はい?」
「高級………ってのはまあ、この際どうでもいいが、娼婦ってのがどういうものか、分かってる
んだよな? もちろん」
「わ、分かってますよ、それぐらい! いくら私が世間知らずでも、一応これでも大学生をやっ
てるんですから!」
 おまえの場合、何があってもおかしくない、とは言わずにおいたが、秋山にしてみれば直がど
んな突拍子もないことを言い出すのか常に戦々恐々としているだけにその言い分には色々と物言
いをつけたいところだっただろう。
 言えば言っただけ言い返されるだろうことは目に見えていたので、沈黙を選んだが。
「分かってるわけか。彼女が自分の身体を商売品として売ってるってことを」
「秋山さん、わざとそんな酷い言い方するの止めて下さい」
 ものすごく辛そうです、と言われて、秋山は本当に沈黙した。
 そんなつもりもなかったし、意識もしていなかった。
 いや、意識をしていなかったからこそ、それは顔や態度に出てしまっていたのだろうか。
 思わぬ失態に、臍を噛む思いの秋山のことを、分かっていたのかいなかったのか。
 直は少し黙ってステージ上の彼の人の姿を見つめながら考え込んでいたかと思うと、不意に口
を開いた。
「あのですね、秋山さん、私って世間知らずですよね」
「世間知らずって言うより、常識がやや偏ってるって言うべき? あー、生活に支障はないかも
しれないけど、世間を渡るには些か不足してるって言うべきか」
「………フォローにならないフォローはいいです、秋山さん………」
 けして感情を表には出さないことが当たり前になっていたはずの自分がうっかりと素の顔を晒
してしまったことを誤魔化すようにやや巫山戯けた調子で言ったそれに、直が本気で項垂れる。
 素直な彼女らしい反応に、秋山は悪いと思いつつも口の端に笑みを浮かべていた。
「で? それがどうした」
「秋山さんは、どう思いますか? 娼婦ってお仕事のこと」
 まさか自分にそれが振られるとは、話の流れから予測の出来ていなかった展開に、秋山は咄嗟
に言葉が選びだせず、とりあえず僅かながらに眉間に皺を寄せて直をじっと見る。
 どういう意味だ、と問い質すその視線を受けて、ええと、と直は改めて言葉を続けた。
「男の人から見たイメージと、女の人の持つイメージって、やっぱり違うと思うんですけど」
「だろうね」
 特にこういう場合は、大きく違いも出るだろう。
 秋山が言外に言うそれを汲み取ったのか、直の視線は再びステージへと戻る。
「私、自分がもしそうだったら、って考えるとやっぱりダメです。でも、それは私がこうして普
通に大学に通って勉強をすることが出来るだけのいろんな意味での条件が揃っているから言える
ことですよね。勉強したくてもお金がなかったり、それ以前にその日食べるものさえも満足に手
に入れられない時、どんなことをしてもって、自分が思わないかどうか、なんてわかりません」
 自分がもしそうだったらと、想像してみたところで結局それは想像でしかない。
 大前提としての今の自分を作り上げた過去の歴史に裏打ちされた考え方というものを、仮想の
現実の前にもその基準を消し去ってしまうことなど出来ない以上。
「私は、エレーンさんのことなんにも知りません。だから彼女がどうしてそういうお仕事をする
ようになったのか理由も分からないで、いいとか悪いとか、言うことなんて出来ません」
「おまえらしい考え方だな」
 秋山の口調には独特の重みがあったが、それが意味するところを直は掴み損ねた。
「………秋山さんは」
「なに?」
「秋山さんは………いえ、なんでもありません」
 彼女が何を聞きたかったのか、それを秋山あもちろん分かっていたが、敢えて重ねては問うこ
とをしなかった直に、答えを返すことはしない。
 そのとき、拍手が起こってエレーンが舞台袖に戻ってくる姿が目に入る。
 彼女はそこに二人が立っているのを見て、少々驚いたようだった。
 てっきりもう帰ったものだと思っていたのだろう。
《まだ何か、御用かしら?》
 問いかけに、直は意味が分からずええと、と何と返事をしたものかと迷うように両手を握りし
め意味をなさない呟きを繰り返した、そのあとで。
「あの、お礼、させて頂きますから!」
 直の意を決したような言葉に、エレーンの表情が僅かに曇る。
 それがどんな意味を持っているのかを直には測りようもなかったが、だったら自分がこうした
い、と思うことを思ったとおりにやるしかなかった。
 あの時あの男を追い払ってくれたのは、店に迷惑とならないようにという理由はあったのかも
しれなくても、友達のために呼んでくれた救急車も店で急性アルコール中毒による死者が出るな
どよからぬ噂を招くものだから、という理由があったのだとしても。
 助けられたことは間違いがない。
 それに、と直は思った。
 どちらもが事実であり真実だとしても、その中に紛れもないエレーンという人間の持つ優しさ
があったのだと。
 友達を介抱してくれた手つきや、そっと優しく肩に触れてくれた手から感じたものは、けして
気のせいなどでなないと信じている。
 だからこそ、何を言っても絶対にこれだけはやり遂げます、と強い意志を孕ませた瞳で自分を
じっと見つめてくる直とエレーンはしばしの間無言で対峙した。
 黒い瞳と青い瞳は互いを映し合う。
 先に視線を逸らしたのは、エレーンの方だった。
《………困った人ね》
 それは自分にも覚えのある言葉で、秋山は複雑そうな面持ちになりそんな二人のやり取りを黙
って見守る。
 直の頑固さは一番身に染みて知っている彼には、彼女を止める手立てを自分が持たないことも
分かっていた。
 この場所に連れてきてしまった時点で、彼が失策を犯していたのと同じだったろう。
 ふと上げた視線の先に、秋山はそうした自分の葛藤のような深層の思考を読みとったかのよう
な、エレーンの深い瞳の色と出会った。
 何も語らない彼女の、その視線がなによりも雄弁に語っている気がする。
 困った人ね、と、直のことも秋山のことも。
《止めても来るのでしょうし、会うのを断っても、あなたは諦めそうもないわね》
 何かを思うようにそう言って、一度は逸れたエレーンの目が再び直を見て、それから秋山を見
た。
《私に会いに来ると言うのなら、あなたと初めて会った日と同じ曜日の、あの店にだけにするこ
とね。この店には二度と来ない方がいいわよ? あの店で私が歌うのはあの曜日だけ。それ以外
の日にもしこの店に来ても、私はけしてあなたには会わないわ》
「え、と」
「来たければ止めないが、会いたかったら土曜日、おまえと最初に会った店に来い、それ以外の
日にあの店以外の場所では絶対に会わない、とさ」
「あ、ああ、はい! 分かりました!」
 秋山の通訳を得てエレーンの言葉を理解した直は、嬉しそうに声をあげてペコリと頭を下げて
みせた。
「じゃあ、また土曜に、来ますね! そうだ、あ、あのこれ」
 持っていたバッグからメモ帳とペンを取り出した直は丁寧な手つきで何かを書き込み、そのペ
ージを奇麗に切り取ると、それをエレーンに差し出す。
「私の携帯の番号とメールアドレスです! もしご都合とか悪くなったりしたら、連絡入れて下
さい。お仕事の都合とかあると思いますし、ご迷惑はかけたくないので!」
 小さな紙切れと直の両者をじっと見つめるエレーンは、動かない。
 何も言わず、その瞳にもなんの言葉もなく、ただ見つめてくるその視線を受けて、直は困った
ように少しだけ首を傾けた。
 それを目にしたから、ではないのだろうけれども。
 不意に動いたエレーンの手が直の手からメモを受け取った。
 ぱっと顔を明るくする直にただ静かな物言わぬ笑みを見せ、彼女の横をすり抜けると舞台裏か
ら廊下へと出る扉を開き身体を滑り込ませる。
 そして、パタリ、と扉の閉まる音。
 彼女の姿が完全に扉の向こうに消えれば訪れる静寂、そして、その上に重なるようにしてざわ
ざわとした店の静かな喧噪が耳に届いてくる。
 受け取ってくれてよかった、と思っているのがよく分かるほっとした様子を笑顔ととも直は浮
かべ、秋山にそのまま喜びを伝えようとしたのか秋山を見上げた。
 その瞬間。
「ああああ、た、大変です秋山さん! 終電の時間が!」
 壁に掛けられていた時計がふと目に入った直が、いきなり現実に戻って慌てふためいた声を上
げた。
「だからさっきから言ってるだろ」
「す、すみません」
「いいよ、まだギリギリ間に合う。いくぞ」
「はい」
 エレーンが出て行ったのと同じ扉を通り抜けて、二人も廊下へと出ると彼女が向かったのだろ
控え室がある方とは反対の左側に折れて出口に向かう。
 遠くなるざわめき、音楽、そして闇色の世界。
 ぼんやりとした光に照らされた通用口の扉が見えたとき、ふと直は何かに引かれるようにして
背後を振り返った。
 そこは薄闇色の世界で、まるで静かな海の底のようだ。
 とても、静かな。
「どうした?」
「いえ、なんでもありません」
 潜り抜ける扉、閉じられるその音に。
 なにかがコツンと音をたてて胸の奥に落ちたような、そんな感覚に囚われた心に引き摺られる
ようにして、それでも直は秋山の後を追いかけ小走りに駅に向かって足を動かしたのだった。







「エレーン」
 胸に下げていたネックレスを外したところで、名前を呼ばれて振り向けば。
「なにか御用?」
 身なりのいい、そしてただならぬ雰囲気を持った明らかに一般人ではない男が立っていた。
「おまえを訪ねてきた客がいたそうだな」
「流石に早耳ね。でもあなたが心配するような人物じゃないわよ」
 くすり、と笑いながらエレーンは男に背を向けるとイヤリングを外す。
 鏡に映った男の姿をちらりとみやれば、別段これといって深刻そうな表情を見せてはいないこ
とが分かった。
「そのようだな。少し前におまえが助けた女だったと、店の者が言っていたよ」
「ええ、そのとおりよ。助けるといっても、私としては騒ぎを起こしたくなかっただけのことな
んですけれどね。今時にしては妙に義理堅い子で私にどうしてもお礼がしたいのだそうよ」
「あまり深入りはさせるなよ」
「そうしたいところなのだけれど、気弱に見えてあれで相当に頑固なようよ」
「エレーン」
 咎めるような響きのある、冷たい声が響く。
 しかしエレーンは笑顔を微塵たりとも崩すことはなく、寧ろ透明な笑みをそこに乗せた。
 まるで感情がない能面のような頬笑みだ。
「心配しなくても、あの子たちはこちらのことに嘴を突っ込むようなことはしないわ。そういう
類の人種ではないから。気づいてもいないでしょうね。………少なくとも、女の子はね」
「………おまえのことは信頼しているが、迂闊なことをすれば後悔することになるぞ。おまえも、
その娘もだ」
「御心配なく。あの子にはとても優秀な騎士がいるから、間違ってもこちら側に迷い込むことは
ないわ。彼を興味半分で愚かしい野望を抱いて小金を稼ごうとするような、そんな馬鹿な輩と同
列に扱っては、失礼というものじゃないかしら。ねえ? あなたも聞いているのじゃなくて?」
 ゆっくりと髪を梳かしていたブラシを鏡台の前に置き、つい、とエレーンは鏡越しに男に向か
ってにっこりと、微笑みかけた。
 細められた瞳には深遠の夜の淵に昇る月の投げかける朧げな白い輝きを思わせる光が、ある。
 男は何を言おうとしたのか。
 わずかに開かれた唇は、そのまま音を紡ぐことなく閉じられる。
 カツン、と音がして踵を返す背中が鏡に映った。
「一歩間違えば奈落に落ちるのは、おまえも同じだ。それを忘れるな、エレーン」
「御忠告、肝に銘じるわ」
 扉が閉じて部屋からその気配が消えるまで二度とは振り向くこともなく、ただ鏡を見ていたエ
レーンの唇にふっと浮かび上がったものは、確かに笑みだったのだろう。
 けれど鏡に映るその顔には、僅かのそれもありはしない。
 赤い唇が艶やかな光を湛えて、小さく動いたようにも見えたけれども。
 呟いた声はとても小さく、音にすらならならずに終わる。
 残ったものはただ、深い沈黙だった。






                                            -To be continued-


久し振りの更新ですね。
なんだかなー前に進んでませんねー。
これで起承転結の「起」がやっとこ終わりです。
「承」がどうなるやら………とほ。