■Prelude

 どこかから、聞こえてくるピアノの音。
 時々つっかかり、手を止めて、少し前からまた弾き直して。
 少しずつ音の流れる時間が長くなっていく。
 それがなんという曲だったか、直は知っているのに思い出せなくて考え込んでしまった。
 昔、まら小学生だったか中学生だったか、そんな頃に聞いた覚えだけはあるけれど、結局、思
い出すことは出来ない。
 秋山さんは知ってるかなあ、と思いながらちらりと視線を持っていた本から上げると、少し離
れた場所でソファーの背もたれに背中を預けることなく少し猫背な前屈みになって、直と同じく
手にした本の上に視線を滑らせている姿があった。
 気になっていた本を見つけたと言っていたから、きっと夢中なんだろうな、と直はいつになく
真剣な秋山の横顔に思わず笑みを浮かべながら見入る。
 長い前髪で隠されてしまっているので見えないけれど。
 きっと、あのすべてを見透かすような瞳は難しい単語を次々と拾い上げているに違いない。
(秋山さんの目、好きなんだけどなあ)
 あまりお目にかかれるチャンスは、ない。
 ないだけに、たまにまともに目が合うと、嬉しいやら恥ずかしいやらで固まってしまうことが
多い直としては、こうしてこっそりと気づかれないように盗み見る方が楽しかった。
 気づかれていない、と思っているのは彼女の一方的な思い込みではあったのだが。
 なんにも興味なんてないよ、って言っているような目をして、世界を斜めから見ているような
印象をそこに焼き付けて。
 だけど本当の本当は違うこと、ちゃんと知ってますよ、と直は小さく呟いてふふ、と笑った。
(みんな知らないけど、でも、本当はね、すごく優しいんだってことを)
 知っていることが、とても誇らしく思える。 
 秋山が優しいなんてあんただから言えるんじゃない、と言われたこともあるけれども、
 そうじゃないよ、と直は思う。
 その優しさはただ優しいだけではなくて、相手のことを本当に考えた上での優しさだから、ちょ
っと見ただけではそうだと分からないだけだと。
 単純な自分が秋山の言動に騙されて、時々あっさりと見過ごしてしまうその後ろに潜んでいた優
しさが、きっとたくさんあったんだろうなあ、とそう思うと小さく溜息が落ちる。
「さっきから、何やってんの、おまえ」
 本から視線を一ミリたりとも動かすことなく、秋山が直に声をかけた。
「えーと、秋山さんウォッチングです」
「随分とまた、暇だな」
「でも、面白いですよ?」
 知らない秋山さんがいっぱい見れます、と直がそう言って笑ったところに、ようやく秋山が本か
ら視線を動かし、直へとそれを向ける。
「なにが面白いんだか、おまえじゃあるまいし」
 苦笑するような響きのある声でそう言いながら、前髪を軽くかき上げた秋山の目が直を捕らえた。
(やっぱり、綺麗だなあ)
 こんな風に不意に。
 なんでもないような瞬間に、秋山が直を見つめることがある。
 笑っているようないないような、独特の表情で。
 直と、そして彼女の後ろに広がっている景色ごと漆黒の瞳の上に映しとり、それはとても静かに。
「それって私は面白いってことですか?」
「面白いんじゃないか? 一人で百面相してるしな」
「ええ!? そんなことしてますか!?」
 ばっと顔を両手で覆ってみせる直に、秋山は今度こそくくく、とはっきり笑って見せた。
「今度、一日自分の顔を鏡に写して過ごしてみるといいんじゃないか?」
「それじゃあ、何にも出来ないですよ。鏡の前にずっといなきゃだめじゃないですか」
 直が頬を膨らませて口を尖らせると、秋山は彼にしては珍しく明確な笑みを覗かせる。
「確かにそうだな。でも、おまえのことだから、本当に鏡の前で過ごしてみようとするかと思った」
「そこまで、馬鹿じゃないですよ、秋山さん!」
「へえ」
 色々なものを詰め込んだその一言に、直は酷いです! と言い返して、ぷいっとそっぽを向いて
みせた。
 その様子がまるで絵に描いたようなお約束の構図を描いていて、なおのこと秋山は笑ってしまう
のだが、これ以上は直の機嫌が本格的に急降下してしまうので、それは未然に防ぐ。
 笑みを引っ込め、いつもの様子でソファーから立ち上がると財布をポケットに押し込んだ。
「秋山さん?」
 どうしたんですか、と言外に問いかけてくる声に、秋山は玄関へと向かいながら返事を返す。
「ちょっと買い物」
「駅までですか?」
「ああ」
「じゃあ、私も行きます!」
 大慌ての様子でわたわたと大きくも小さくもないお気に入りのカバンに携帯を押し込み、直は秋
山に遅れまいとするようにしてその背中を追いかける。
 途中、つんのめりそうになったのは、いつものことと済ませるべきご愛嬌か。
「お待たせしました!」
「そんなに慌てなくても」
 置いていったりしないけど、と続くべきところは飲み込んで、秋山は直が自分に駆け寄ってくる
のを肩越しに振り返って見守った。
 うっかりするとすぐに転ぶので、家の中だからと言って安心出来ないのだ。
 そして自分の隣に立ってにっこりと笑った直に、秋山は微妙な苦笑を返してアパートの扉を開け
て、夕暮れがもうじき降りてくる空に続く景色をそこに招き入れた。





 駅前の商店街から秋山のアパートまでは、およそ五分から十分。
 秋山が自分のペースで歩けば前者で、直の歩調に合わせれば後者ということになる。
 今は直が一緒なので、当然十分間の旅路だ。
 時間にしてみればけして長くはないものだったけれども、直とってこれは大事な時間だった。
 デート、というものを改まってしたことなんて数えるほどしかない。
 あまり出歩くことを好まない秋山を外に引っ張り出すのは、直をしてもかなりの努力と根性を求
められる。
 直自身も、デートなるものを楽しみたいという世間並みの若い女の子らしい望みを抱かないわけ
ではないのだが、しかし同時に秋山と同じ空間で同じ時間を共有できるのであれば、それで十分と
思えるものがあるので結局、彼の過ごし方に直の方が合わせることが多かった。
 一緒にいられることが、一番。
 だから、ちょっとした買い物ついでだとしても、こうやって二人で並んで歩ける時間は直にして
みればデートと同じだけの価値のある時間だった。
 話をするのは大概直で、秋山はそれを聞いて時折頷いたり、ぽつりぽつりと返事を返したり、そ
んな素っ気無いものだったが、どんなに他愛のない話でも秋山がきちんと聞いてくれていることを
直は知っていたから、少しも不満に思ったりもしなかったし、気になったりもしなかった。
 話しながら時折、自分よりも背の高い秋山の顔を確かめるように見上げれば、そっと応えるよう
に返される視線。
 いつもと同じ、直にとってなにより安心できる優しい色をした瞳の色をそこに見つけて、自然と
広がる笑みを隠せない。
 そんな直に、不思議そうに少し見開かれた秋山の瞳には、嬉しげに笑う直と彼女を包み込んでい
世界が映っている。
 そしてを見つめ返す直の瞳には、そんな秋山と彼を包む世界の風景が映っているのだろう。
「なに笑ってるんだ?」
「幸せだなあって、思ったんです」
「何が」
「内緒です」
 ふふ、と笑って、直は秋山よりも一歩だけ前に出た。
「秋山さん、お買い物は何ですか?」
「本」
 さっき読んでた本の参考文献で気になる本があった、と応える秋山に、直は堪えきれずに吹き出
すように笑ってしまう。
「なんだよ」
「だって秋山さん、昨日あんなに本買ったのに」
 そして普段は休みの日に出歩くは面倒だって出かけるの嫌がるのに。
「うーん、当面のライバルは本ですかね」
「なんだそれ」
「私の自分目標です」
 良く分からない、という顔をする秋山に、いいんです、と直は一人なんだかやる気を出していた。
「それで?」
「はい?」
「君の買い物はなに」
「ああ、えーと」
 それらしい用事を慌てて考えるが、何も思いつかない。
 なので、秋山さんと一緒にお出かけしたかったんです、と正直に応えた。
「たかが十分やそこらだろ」
「されど十分やそこらなんです!」
 案の定、呆れ顔の秋山に、直はむむ、と眉を寄せてみせると、ずいっと顔を近づけてその顔を下
から覗き込む。 
 そして腰に手を当てるような格好をして、大事なんですよ、と言えば、秋山はそんなもんかな、
と少し考えるように首を傾げながらも直の格好が面白かったのか、笑い出す。
 そんな、ささやかで小さな、出来事が。
 一つ一つ重なって、今日を作り思い出を作り明日を作る。
 いつもと同じ、けれど確かにいつも同じではない風景の中で。
 少しずつ、変わっていく風景の中にいる、少しずつ変わっていく二人。
 昨日より、少しは大人になれたかな。
 昨日より、綺麗になれたかな。 
 秋山の瞳の中に映る自分を見つめて、直は思う。
 昨日よりもずっと、秋山さんのことが好きで。
 昨日よりもずっとずっと大切で。
 この気持ちはどこまで大きくなるのかな。
「今日の夕飯ってもう決めてるのか?」
「え? いいえ、どうしようかなって、ちょっと考えてました」
「じゃあ、君の外出の目的はそれにしたら」
「え?」
 何を言われているのか、直には咄嗟に理解が追いつかない。
 暫く考えても答は出ないかもしれないが。
「目的があれば、それだけ時間が稼げると思うけど?」
「………あ!」
 ぽんと手を打ちそうな、そんな勢いで直が声を上げた。
「そうですね、そうですよね、そうしましょう!」
「そんなに勢い込まなくても」
「秋山さんも一緒に考えてくださいね」
「俺は作るわけじゃないから、好き勝手言うよ」
「いいですよ! 神崎直の名に懸けて作って見せますから!」
「なんだか、怖いものがあるのは気のせいか?」
「気のせいです!」
 即答かよ、と秋山が呆れても直はニコニコと笑顔だ。
 だって、本当のことですから、とそう応えると、あ、そうと素っ気無い返事が返る。
(ほら、だって、笑ってくれるもの)
 秋山さんは、昨日よりもすこしおしゃべりで。
 昨日よりも少し、笑顔が増えて。
 私に向けてくれるその瞳に、私とそして私を包む世界を映して暖かなものはもっともっと強くな
っていく。
 直は本当に嬉しそうに微笑みながら、秋山の手の、その指先をちょこん、と握った。
 それを、秋山も軽く手を丸めるようにしてそっと触れてくる指先を握り返す。
 しっかり握り合っているわけでもないが、かといってけして離れることのないくらいに。
「幸せそうだね」
「幸せですから」
「正直者だよな、ほんと」
「秋山さんだって」
 時々とっても正直者ですよね、と笑って言った直の額に、見事にデコピンが決まる。
 痛いですよ秋山さん!
 痛くて当たり前だ、そうしたんだから。
 前髪の向こうで笑う気配。
 つられたように直も笑ってしまう。
 そうして、相変わらず繋がっているようないないような手はそのままに。
 少し前を歩く秋山の、少し後ろを直がとことことくっついて歩く。
 長く伸びた影が、そんな二人の後を追いかけて。
 夏の夕暮れの風が、忙しない蝉の声を乗せて流れてくれば。
 それに重なるようにして、かすかに聞こえるピアノの音は相変わらず同じところを行ったり来た
りしながら、けれどその先へと音を綴って。
 真っ赤に焼けた空の上に輝く気の早い一番星。
 蝉の声、ピアノの音、手を繋いでいるようないないような二人の上に広がる暮れかかる空には夜
の匂いがかすかにする。
 なんてことのない、ある日のこと。 



                                                      -END-

お散歩な二人。
日常を書きたかったんですが………あれ?
これはドラマですね。原作の秋山さんのイメージで同じ話しを書くと、かなり違うものが
出来上がります(笑) もうちょっとなんてゆーか、兄妹的になりそうな気がしてなりません。
原作の秋山さん、見た目めちゃめちゃ落ち着いてるからなあ。

テーマソングがありました。ZABADAKの「歩きたくなる径」「Tin Waltz」の二つ。
しかし、確実にごっそり失敗してます。「桜」というアルバムに収録されていました。
現在は、多分、廃盤なんじゃないかしらん

タイトルの「Prelude」はそのまま、聞こえていたピアノの曲名です。
バッハ『平均率曲集T』プレリュード。自分で弾いて、すごく気に入っている一曲。