■狼なんて怖くない?
 扉を開けて、秋山は彼女が来ていたことを知った。
 どうやらちょっと買い物に出ている間に、やってきたらしい。
 合鍵を渡してあるので、こういうときは気が楽だった。
 それ以前は秋山がいない間にやってきて、彼が戻ってくるまで玄関の前で延々と待ち続けてい
たのだから。
 それにしても、今日はいつもやってくる時間になっても現れないので、もう来ないかと思って
いたから買い物に出たのだが。
 ちょっと驚きながらも、それは尾首にも出さずに声をかける。
「来てたのか」
「あ、秋山さん お邪魔してます!」
 くるりと振り返って、いつもの笑顔で直はそう言った後で、少し申し訳なさそうな顔になる。
「すみません、遅くに」
「いや、それは別にいいけど」
 そう応えたところで、そういえば今日は大学で一番遅い講義を受けることになっている、と言
っていたな、と思いながら靴を脱いで部屋に上がる。
「おかえりなさい」
「ただいま………って、おまえ、何してんの」
「ええと、ちょっと知りたいことがあって」
 そう言ってえへへ、と笑った直の周辺には、何冊もの本が開かれた状態で並んでいた。
 どれも秋山が持っている本ではないようなので、全部直が持ち込んだのだろう。
 これだけの量となるとかなりの重さだったのではなかろうか、と秋山は呆れ半分で持っていた
ビニール袋をぽい、と部屋の脇に置いてキッチンに向かった。
「調べものって、大学の講義でなにか分からないことでもあったのか?」
「いえ、それとは全然関係ないんです」
「ふーん、じゃ、なに」
 冷蔵庫を開けてアイスコーヒーをグラスに注ぎ入れながら、問いかける。
 ついでに、直のためにと彼女が自分で購入してきたアイスココアもグラスに入れて、それを手
に彼女の元へと戻った。
「ほら」
「あ、ありがとうございます!」
 ぱあっと顔を綻ばせ、直は秋山が差し出したグラスを受け取り、ニコニコしながら早速、とば
かりに口へと運ぶ。
「喉が渇いてたの、忘れてました」
「気をつけろよ、この時期、熱中症なんてものになる奴はけっこういるから」
 特におまえの場合、脱水症状起こしてることを気付かないままぶっ倒れそうだ、と言えば、そ
んなことないですよ! とまったく信憑性のない反論が返ってきた。
 なので、秋山は無言でそれを流してしまう。
 それに直はまったく気付いてもいないようだったけれども。
「うーん、甘くて美味しいです」
「ほんと、甘いもの好きだよな」
「そうですか? 私は普通だと思いますけど………秋山さんだってけっこう甘いもの、好きです
よね? ほら、デザートとか外に食事に行ったときに必ずきちんと食べるじゃないですか」
 直の突っ込みに、秋山はまあね、とだけ応える。
「俺こそ普通だと思うけど」
「男の人って、甘いものが嫌いだって友達から聞きましたよ?」
「そう言うのを既成概念、って言うんだ。世の中それが通用しないことも多いんだってこと、覚
えておいた方がいいよ」
 キセイガイネン、と繰り返しながら、直は少し考えるように黙り込んだ。
 秋山は彼女の思考がどっちに向かって動いているんだろうな、と思いつつ、自分のグラスを傾
けて中身を飲み干す。
 そして、十分に間を開けた後、直の座っているそばに腰を下ろし、広げられていた本を一つ、
手に取った。
「………動物図鑑?」
「あ、はい」
 なんだってまた、こんなものが。
 何を調べようと思って、これを借りてきたのだろうか。
 裏表紙のところに貼られたバーコードから図書館、おそらくは彼女の大学の図書館から借りた
ものであることは明らかだ。
 大学からここまで、かなりの距離になるだろうに。
「動物でも、飼いたいのか?」
「いえ! あの猫とか犬とか好きですけど、でも、飼うだけの責任は私にはちょっと………いえ
そうじゃなくて、これはそういう意味で借りたんじゃないんです」
「じゃあ、なに」
「えっと、ですね」
 どう説明したらいいのかしら、と直は口を閉ざして上目遣いに天井を見上げる。
 上手い言葉が見つからないのか、必死に考え込んでいる様から彼女の心理が手に取るように秋
山には分かるが、とりあえずここは助け舟は出さないでおくか、と黙って件の動物図鑑へ視線を
戻した。
 そして他の本にも視線を走らせ、二冊目、三冊目、までいったところで、眉を顰めることにな
ってしまう。
 どれもこれも、動物に関するものだった。
 どうやら彼女の調べものとは動物に関するものらしく、それはいいのだが。
 問題は、その開かれているページに載っているもの、その内容だ。
 どれもこれもみな同じ。
 それは日本においては野生のものが二十世紀初頭に絶滅してしまった、と言われているもの。
(………オオカミ?)
 どの本もこの本も、開かれているページはみなどれもオオカミについて書かれている場所。
 中にはオオカミについての専門の本もあるようだ。
 彼女の専攻とはまったく無関係だったし、彼女自身も大学の講義とは関係がない、と言ってい
る。
 しかし、ではいったい何故急にオオカミなのか。
 秋山が直の説明を聞くよりも前に独自の切り口で彼女の行動の謎に迫ってみたが、やはり最終
的な結論には至れなかった。
 そこで答を持っている直に視線を向ければ、どうやら、彼女の方も考えがまとまり説明を出来
る状態に至れたようで顔を秋山の方へと向けていて、彼女のそれとばっちりと重なる。
「あのですね」
「うん」
「実は、大学の友達とお昼ごはんを食べながらお喋りしていたときに話が出たんですけど」
 大学の友達、と言われて、秋山の眉間が寄る。
 なんにつけて色々と常識的な知識が不足しがちな直は、大学という高校よりもはるかにフリー
ダムな世界で、いままでとんとご縁のなかった様々な事柄を身につけてくるのだけれども。
 それには常に秋山にとって問題とトラブルの二枚看板を背負って、迫ってくるのだ。
 大体において、直は耳にした言葉を額面どおりに受け止めてそれを自分の知りうる知識の中か
ら引っ張り出したもので理解しようとする。
 それは通常の人間の場合でも大差のないことなのだろうけれども、問題は直が直である、とい
うことに他ならない。
 要するに、情報処理をするために必要な基礎的知識が根本的に希薄で常識外れな規格外である
ために、自力で導き出されるものは絶対に必ずと言っていい確率で正解とは程遠い、場合によっ
ては真反対の方へと向いているという事実が秋山にクリティカルヒットを食らわせる。
 なにより直は秋山さんなら絶対に知っている、教えてくれる、と信じて疑っていないことも、
ある意味では問題であったかもしれない。
 それを、俺に聞くのかおまえは、と言ってやりたくなったことが過去に何度あったことか。
 思い返すとただただ疲れが襲ってくるだけなので、それは自主的に回避するも、またしてもそ
の有難くないパターンにはまりそうな現状を回避する手段は、残念ながら明晰を誇る秋山の頭で
も見つけ出すことができなかった。
 なので、おとなしく話の続きを聞くしかない。
「男は狼、ってどういう意味なんでしょうか?」
 ほらきた。
 秋山の心情を表すに適した言葉は、おそらくこれが一番適していたのではないだろうか。
 どういった話の流れで、大学の友達とやらとそういった言葉が出てくるに至ったのか、そのあ
たりの流れも、凡そ秋山の頭の中では、まるでその場に居合わせたかのようにリアルムービーで
駆け抜けていたが、直の質問に対する即時解決、な答えは見つからない。
 秋山の素晴らしいまでにとっちらかった思考と心情を知る由もなく、直はさらに言い募った。
 言い換えれば、さらに秋山を追い詰めていった。
「男の人は狼って言うことなんですか? でも、狼にだって雄と雌がいますよね? だから、女
の狼さんだっていると思うんですけど。それに、男は狼だから、気をつけないと食べられちゃう
って言われたんですけど、狼って雄しか狩りをしないんですか? 色々読んでみたんですけど、
そういう記述ってなくて」
「………まあ、そうだろうな。狼の場合、群れで狩をするから雄雌の区別はないし」
「やっぱり! そうんなんですね。シートン動物記の狼王ロボに、そんな記述がありました」
「それ読んで、泣いた?」
「な、なななんで分かるんですか!?」
 秋山さんは超能力者ですか!?  などと慌てふためく直に、それくらい予測出来なかったら
君とは付き合えないよな、と内心思いつつ、なんでだろうね、とだけ応えておいた。
「あの、それで、どういう意味なんでしょうか?」
「男は狼なんだろ」
「はい」
「つまり、この状況で言えば、俺が狼ってことになるわけだ」
「えーと、そうですね」
 全然分かっていない返事を返す直に、はあああああ、と盛大な溜息を落としてから、秋山はず
いっと座ったままで直へと距離を詰める。
 その行動の意味が分からず、きょとん、と直はそんな秋山を見つめてくる。
 ああ、本当に、全然、分かってないわけですか。
 どうしてやろうか、と一瞬思ったことは思ったが、ここで正しい説明をしたところで、直が正
しく理解してくれる可能性の低さを下すしかない自分に、秋山は泣きたくなる。
 こんな苦労を自分にさせる、その顔も知らない直の友人とやらに呪いの言葉の一つも吐いてや
りたくなると言うものだ。
 けれど、そんなことをしても現状はまったく打開されない。
「秋山さん?」
「おまえさ、俺が狼で、おまえがヤギだったとしてみろよ。こんな状況にあったら、俺がおまえ
を食べるのなんて簡単なことだろ? 男が狼ってのは、俺とおまえのこの状況を暗に含ませた、
その例えなわけ」
 まん丸になった直の目が、かつてないほどに接近した秋山の顔をまじまじと見上げている。
 状況理解も著しく亀の歩みな彼女の脳内に、それが伝わるまでの時間は、十分に狼さんがヤギ
さんを食らい尽くす最初の一歩を踏み出しているだけの長さがあっただろう。
「ああああああ、秋山さん!」
「………なに」
「顔が近すぎますー!」
 そう悲鳴のように叫んだかと思うと、ぐいーっと全力でもって直は秋山の顔を押しのけた。
 本気で迫っていたわけではなかったので、あまり力の入っていなかった秋山の身体は無防備に
近く、その予想外に強い力によって捻じ曲げられた彼の首は、危うく捻挫するところだったろう。
「あのな」
「あ、ごごご、ごめんなさい! あんまり近かったから!」
 自分がしでかしたことに気付いた直は、今度は大丈夫ですか?! と秋山の顔をがしっとばか
りに掴んで具合を確かめようと自分から顔を近づけてきた。
「いい、平気だから。それより、俺が言ったことの意味、分かったのかよ」
「え? ええと」
 慌てて直は秋山が言った、彼の言葉のうちのどれのことを指しているのかしら、と顔にはっき
りと書いた状態で小首を傾げる。
 だめだこりゃ。
 それが秋山の正直な感想だったろう。
 あんな遠回しな説明で、この奇想天外な天然に通じるわけがない。
 だからといって、あれ以上突っ込んだ実地による指導を求められても困るのだが。
「あのですね、秋山さん、男の人が狼だって表現の詳しい意味はまだちょっと分からないんです
けど、男の人が狼さんでも、私大丈夫ですよ!」
「はい?」
 頓狂な声が上がっても、仕方がなかっただろう、この場合。
「ああ、えと、違います違います! 男の人が狼さんでも大丈夫なんじゃなくって、秋山さんが
狼さんでも大丈夫です!」
 そう言いたかったんです、とにこやかにいっそ晴れやかなほどの笑顔で。
 言い切らないでくれないだろうか。
 秋山は悲しめばいいのか、喜べばいいのか、はたまた落ち込めばいいのかさっぱりと自分のこ
とでありながら分からなくなって、結果、膝に肘を突いた手に額を当てて、そこに全身の力を預
けてしまった。
「………狼なんて怖くないってわけ」
「えーと、それは怖いと思います。だって、すごい牙ですよね。ガブってやられたら大怪我しち
ゃいそうですし、私鈍いから逃げられそうもないし」
「だろうな」
「酷いです! いえ、本当のことなんですけど………じゃなくて、でもですね、秋山さんの狼さ
んなら全然平気です! だって、秋山さんが私のことガブリ、なんてしないじゃないですか。そ
れに、私大型犬って大好きなんですよ! こう、ぎゅーってするのとか」
 そして、いかに自分が犬好きで、だから狼だってへっちゃらで、それが秋山さんだったらもう
全然問題なんてなしです、と続ける直に、秋山はただ、ああ、そう、なるほどね、と返す以外に
どうすることが出来ただろうか。
 信頼されているのだろう。
 だがこれは信頼されすぎと言うものではないだろうか。
 なんというか、あれだ。
 兄とか父とかそういった、保護者のレベル。
 あるいは、この場合ペットの犬と同次元なのかもしれないわけで。
「だから、秋山さんの狼さん限定で! 怖くありません!」
「………………俺限定ね………」
 はあああ、と溜息一つ。
 これはもう、どうしたらいいのだろうか。
 本当にどうしようもない。
 どれだけ人を騙すことには回転の速い優秀な頭脳だって、こればかりは。
「あのさ」
「はい?」
「そのお友達とやらに、間違ってもそれ、言うなよ」
「ええと、どれですか?」
 落ち込みながらも、根性で復活した秋山はこれだけは言っておかねば、とばかりに直へと視
線を向けて、ことさら強い口調で言った。
「俺だったら、狼でもいい、とかなんとかいう、それ」
「え? どうしてですか?」
「俺が言われたくないから」
 いくらでも理由をでっち上げて言いくるめるのは簡単だろう。
 しかしここはもう、本音で行かせて頂きます、と秋山はすっぱりと言い放った。
 そして直としても秋山からそう言われてしまえば、嫌ですなどとは言えるはずもなく。
「分かりました! 絶対に言いません! 大丈夫です!」
「そうしてくれ」
 何故、自分がそれを言われたくないと思っているかなんて、絶対に理解はしていないのだろ
う決意満面の直に、秋山はそっとまた一つ新しい溜息を落とした。
「はい! 任せてください!」
 なぜか脳裏に、赤頭巾ちゃんの直が、それはそれは嬉しそうで楽しそうな笑顔を湛えて、狼
の自分を羽交い絞めせんばかりに抱きしめて頬ずりまでしながら、大好き! と。
 言っている姿が脳裏を掠めるのを遠く遠く、眺めながら。
 そこに自分の将来を見たなんて、絶対に思いたくはないけれど。
「秋山さん、晩御飯まだですよね? 私もまだなので、これから何か作りますね!」
 ばたばたと本を片して。
 疑問を無事に解決出来た直はいそいそとキッチンへと姿を消した。
 そのワンピースが、控えめながらも赤い色をしていたのは偶然のなせる嫌がらせなのか。
 彼女から逸らした視線の先には、さきほど積み上げられた本の群れ。
 その一番上にあった本のタイトルに秋山はどっと疲れを感じて、視線をそこからも逸らし、
暗くなり始めた景色に意味もなく視線を投げる。
 表紙に書かれていた文字は、【オオカミよ、嘆くな】、だったわけで。
 その背中に哀愁が感じられたのは、多分、気のせいでもなんでもなく。 
 それ以前に、狼になれる日は果たしてくるのだろうか。
 果てしなく恐ろしいその考えは、キッチンから流れてきたハミングと仲良くダンスを踊りな
がら、夕闇迫る茜色の空へと流れていった。   


 
                                                      -END-



おかしい………こんなに長くなる予定ではなかったのに!
ヘタレな秋山さんですみません。
でも、なんとなーく私の中の秋山さんってこんな感じになりつつあるような。
口調のイメージ的にはドラマです。ただし、ドラマの秋山さんだと
もうちょっと攻めの姿勢もみせそうなんですけど………
まあその、その辺りはご愛嬌で。
リベンジマッチは………あってもリベンジにはならないでしょう(きっぱり)
………ごめんね、秋山さん。