■塩鮭と卵焼きと彼女の
 ぱたぱたと、忙しなく動く足音。
 洗面所と台所とベランダの三箇所を、いったい何回往復しているのやら。
 直が自宅まら毎週末まとめて持ってきてくれる一週間分の新聞に目を通しながら、秋山は
ちらりと視線だけを向ける。
 やたらと楽しそうな姿は、鼻歌でも歌っていそうだ。
 いや、実際歌っているのかもしれない。
 音らしいものこそ聞こえては来なかったが、僅かに口元が動いていることから直が楽しげ
に何かを口ずさんでいるのだと察するのは容易なことだった。
 あいにくと音楽的な素養は薄く、興味も薄く、歌うという行為についてなんら関心のない
秋山には、たとえ彼女のそれが可聴音域達するレベルで歌われていても、誰の何と言う歌な
のかを察することは難しかっただろう。
 せいぜい、小中学生が授業で習うようなものしか、知識がないのだ。
 それでなくても三年もの間世俗を離れていたし、その前の数年間も歌なんぞに現を抜かし
ているような余裕もなく、結果として秋山は歌全般に関して完全にド素人だった。
 秋山としては、べつに歌について詳しかろうが詳しくなかろうがどうでもいいことだった
し、この歳にもなれば必要に迫られることもなく、会社勤め人にはついて回る社交辞令的な
お付き合いも存在しない身の上なれば、今更流行の曲を覚えようだの歌が上手くなろうだの
といった気力も起きる事はない。
 そもそも、秋山にとって歌は非得意分野の筆頭に上がるのだ。
 音感が悪いわけでもなく、リズム感がないわけでもない。
 しかし人間、得手不得手というものは存在する。
 要するに、彼にとって、歌うという行為は不得意な分野に属するものだということだ。
 当人がそれを認めるかどうかについては、聞いてみなければ分からないこだけれども。
(まあ、いいけどね)
 そこまで色々と思い巡らせ、結局考えても意味のないことと、と秋山が頭の中を切り替え
たときだった。
「秋山さん、いくらなんでも洗濯物溜めすぎですよ〜」
 洗面所からひょこっと、直があきれ返った顔を隠すこともせずに秋山に注意を促す声をか
ける。
 しかし、秋山はすでに新聞へと視線を落とし、半分ほどしかそれに耳を傾けない。
「平日は仕事で忙しいから、ついついね」
「それにしたって………着るものがなくなっちゃいますよ」
「一応枚数計算してるから平気」
 そういうことじゃなくて、と半分諦めたような声を上げながら、直はパタパタとまた洗面
所へ。
 そこで洗濯機の様子を確かめると、また台所に戻る。
「もうちょっと待ってくださいね、御飯できますから!」
 直の手が鍋の蓋を取ると、ふんわりと優しい味噌の匂いが漂ってくる。
 器用な手つきでフライパンを返して作っている卵焼きはきっといつものようにふわふわで、
網焼きの上には鮭の切り身が乗っているのだろう匂いもあり、秋山の腹がぐう、と小さく音
を立てた。
 なんというか、餌付けされているような気がしないでもないが。
 実際、食べて美味しいと思うものがあるのは人として幸せなことだろう。
 それを作ってくれる相手に、少々問題があるのは否めない事実なのだけれども。
「出来ました〜! 秋山さん、テーブル空いてますか?」
「ああ、平気だけど」
 返事を聞いて、じゃあ運びますねー、と暢気で明るい声と共に、直がお盆を手にして台所
に掛けられた暖簾を潜って現れた。
「今日の卵焼きは、ちょっと自信作です!」
「そう………っていうかさ」
「はい?」
 にこにこしながらお皿を並べていく直に、秋山は此処最近頻繁に思うようになっていたこ
とを、つるりと言葉にしてしまう。
「君さ、飯はともかく………いや、飯も含めてだけど、赤の他人の男の下着まで洗濯するっ
てのはどうなんだ? 母親でも妹でもないのに」
 秋山が真剣に呆れたような声でそう言った直後、というよりも言っている最中だったかも
しれない。
「………あ!」
 いきなり、直が素っ頓狂な声を上げたものだから、秋山は怪訝そうな顔つきになってその
顔を見る。
 そこには目をまん丸にした直がいた。
「………なに?」
 何を考えているのかの予測が簡単なようで非常に難しい直に対して、秋山が軽い警戒心を
含んだ声をかければ、ニコニコと笑顔が返される。
「秋山さん、私のこと、お母さんだとか妹だとか、そんなものじゃない、って思ってくれて
るんですね」
「そりゃね」
 血縁の関係に彼女がいたら、些か少々、いやかなり多大に。
 自分にもその天然の血が流れているんだろうか、と不安を覚えただろうな、などとちらり
と思っていたところへ、そんなことは知るわけもない当人から、更なる質問が寄せられた。
「お母さんでもなくて、妹もでないとしたら、じゃあ、なんですか?」
「カンザキナオ」
 コンマ一秒もない切り替えしに、今度は直がううーん、と眉を寄せてしまう。
「そうじゃなくて………それはそうなんですけど、それとは違って………」
「他に何があるっていうつもり、君」
「それなんですけど」
 酷く難しそうな顔で考え考え言葉を紡ぐ直に、秋山の中ではっきりと警戒心が頭を擡げた。
 経験が教えるそれに、しかし対処するべき手段は見つからない。
 直のみせる行動に対しては、常に対症療法しか存在しないのだ。
 根源的な修正は不可能であり、ゆえに、いかなる症状に見舞われようとも齎された結果に対
して臨機応変に。
「ええと、あのですね」
「うん」
「入学料は、食事の支度とお洗濯とお掃除で、どうでしょうか」
「………なんの話」
 途中の過程を豪快にかっ飛ばした直らしい話の展開に、秋山は至極冷静かつ真っ当なる疑問
を投げ返した。
 問題は、次に帰ってくる返事。
 それに対してきっちり身構えておかないと、確実に狙い澄ましたように顔面狙いでくるだろ
う返球を受け損ねる。
 と言うわけで、いたって冷静かつ穏当なる態度を保持しつつ、その実きっちりしっかりバッ
クホーム体勢の秋山に対して、にこ、と直は笑って見せた。
「もちろん、秋山さんの彼女候補生になるためです!」
「………………は?」
「だって、秋山さんの彼女になるには色々あるじゃないですか!」
 色々ってなんだ。
 秋山はなんとかグラブど真ん中でキャッチしてみせたものの、勢い余ってそのまま後ろにす
っころびかけそうになるのを堪えるため、とりあえず、踏ん張った。
 踏ん張ったものの、その衝撃は凄まじくしばし言葉が出ない。
「ですから、ここはきちんとイチから始めなくちゃいけないと思うんです」
「イチから」
「はい。秋山さんの立派な彼女になれるよう、頑張っていきますから、ご指導よろしくお願い
します」
 はい、こちらこそ、と思わずきっちり頭を畳につけそうな直に釣られて同じことをしてしま
いそうになった秋山だったが、待て待て待て、と寸でのところでなんとかここも踏ん張った。
「すみませんが、神崎直さん」
「はい」
「候補生からのステップアップについては、つまり、俺の判断だってことになるわけ」
「はい! なので、宜しくお願いします」
 お願いしますと簡単に言ってくれるが。
 何をどうお願いされているのか、そこのところがさっぱりダークグレイなわけで、秋山には
返答のしようがない。
「私頑張りますね! とりあえず、今日のお昼は腕によりをかけた塩鮭の焼き魚です!」
 それは果たして腕によりをかけなくては出来ないものなのか、という点について、つっこむ
べきかどうかを考え、さあどうぞ、とばかりに笑顔を咲かせた直をちらりと見た秋山は最終的
に無言できちんと箸置きに横置きにされていた箸を手に取ることを選んだ。
「頂きます」
「はい、どうぞ!」
 卒業証書の発行は何時になるのやら、果てし無く不透明な中で。
 焼き魚と卵焼き、それに味噌汁の香りが漂う中で、とにもかくにも試験官秋山深一と候補生
神崎直は、差し向かいに茶碗を手に取った。
 残暑厳しい秋風月のある日の昼模様の話。
 



 
                                                      -END-


直ちゃんは日本食が得意だといい。
七対三の割合で作るものは日本食。
箸の使い方はけっこう上手。
秋山さんも日本食が食生活のメイン。
原作だったら行きつけの定食屋では本日のおススメを選んでいそう(考えるの面倒だから)。
いつの間にか定食屋のおばちゃんと仲良くなって、御飯は大盛にしてもらえる。
なんだかおかずが一品多いときもあったり。
秋山さんは細身の癖に大飯食いだといいなあ。
実にきちんとした手さばきで、でもがつがつといっちゃってください。
直ちゃんはそんな秋山さんの食べっぷりに喜んでいるといい。
お父さんがそれほどたくさん食べる人じゃなさそうだから
「男の人ってすごいんだなあ」と純粋にびっくりするがいいさ。
(学生時代、部活動している男子の一日の食事量やカロリーは、ただただミラクル!だった)
作る側としては褒め言葉なんてなくても、がつがつ食べていただけると
嬉しいもんだったりする。
直ちゃんの得意料理が肉じゃがだったら笑えるので、ここは一つふろふき大根とか
さばの味噌煮とかで。
逆に秋山さんが肉じゃが上手かったらそれはそれで楽しい(笑)
里芋の煮っ転がしとか、切り干し大根の煮物とか、大好きだ(私が)!