■迅雷耳を掩うに暇あらず
それはいつもとそう変わらない、夕食の時間だったはずなのだが。
直の声に呼ばれて、読んでいた本を閉じテーブルを軽く拭いて食事ができるように支度を
するのは自分の役目にいつの間にかなっていたなあと思いながら秋山がそれをこなし、直が
運んできた皿がそこに並べられて、二人で一緒にいただきます、となるはずだったのに。
(………赤飯?)
いつもは白いはずのそれが赤、というかほんのりとピンクにも見える色に染まっているこ
とに気付いたところで、秋山の動きはぴたりと止まってしまった。
そしてやや遅れて、壁に掛けられたカレンダーへと視線を送る。
あいにくと、そこには今日がいかなる重要事項を孕んだ日であるかを知らせるようなこと
は何も記入されてはいなかった。
残念ながら一番の助けとなり、かつ唯一の手段でもあったものを失ったことを認識すると、
すぐさま思考を内側へと向ける。
すなわち、己の記憶をざっくりと掘り返した。
記憶力はいいわけではないが整理はできていると自負している秋山だったが(これを口に
出して言えば四方八方からさんざんなくらいに文句が叩きつけられたことだろう)、しかし
どの箪笥の引出しを引っ張り出してみても、どうしても可能性となりそうなものの欠片すら
も見つけられない。
(何の記念日だ? 俺の誕生日でもこいつの誕生日でもないよな)
誕生日に赤飯を炊くというのは少々ありえない発想で、少なくとも秋山の常識からするの
ならその二つにはなんらも整合性は見受けられないのだけれども、直の少々突拍子もない行
動を思えばそうだったとしても驚くには値しない。
とはいえ、残念だが二人の誕生日はどちらも本日の日付とは一致しないので却下だ。
では他には何があるだろう。
あの、二人がとんでもない形で出会った最初の日か、いやそれも違う。
ゲームが終わった日、でもない。
ではあれは、だったらこれは、と次々思い出せる限りのすべてを吐き出しても、結局秋山
はこれだ、と明確に断定できるものを思いつくことはできないままで終わってしまった。
しかしそれでも、目の前には赤飯がある。
もしかしたら、ただ赤飯を炊くことに意味はなく、ささげが偶然安売りしていたからそれ
で作ってみました、なんてとてつもなくシンプルな理由があるのかもしれない。
が、やはり基本的なところで赤飯といえばなにかしらの意味があって、何かを祝するため
のものであると考えるのがベターなところだとするのなら、この赤飯にも直が密かに込めた
何かがあるのだと考えるべき、なのだろう。
秋山はそう考えを締めくくると、ついっと正面に座る直へと視線を向けた。
「一つ、聞くけど」
「はい? あ、ゴマ塩これです、どうぞ」
「ありがとう。いや、そうじゃなくて、なんで赤飯なんか炊いたわけ?」
俺にはその理由がまったくわかりません、と正直に告白することになるわけだが、しかし
どうしてもそれらしいものが見つけられなかった秋山がそう尋ねると、直は一瞬だけきょと
んとした表情を見せた後、にこっと少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「やっぱり、秋山さん、今日が何の日か覚えてなかったんですね」
「悪いけどまったく。何かいいことあったか?」
「ありましたよ! すっごくいいことです」
えへへ、ととても嬉しそうに頬を緩める直を見て、ますます秋山は困惑を深めてしまう。
彼女が言うところのすっごくいいこと、には、間違いなく自分も関わっているであろうこ
とは想像するまでもない。
自分だけのことならば、直はこうして二人でする食事に自分のためだけに赤飯を炊いたり
などしないだろう。
二人に関わっていることであるから、こうして目に見える形で祝うことにしたことは間違
いがないのだが、そこまで分かってもなお、肝心の理由となるものがどうしても想像の域を
越えてしまっていた。
なので味噌汁を受け取りながら、秋山はそれってなに、と聞くしか答えを知るすべがなか
ったのだが、しかし、それは自ら地雷を踏むような行為だったとすぐに知ることになる。
「秋山さん、やっぱり忘れちゃってたんですね。ふふ、今日は、一周年なんですよ」
「なんの?」
「秋山さんが、初めて私の名前を呼んでくれた日、のです!」
みっともなくも含みかけていた味噌汁を目の前に座る相手に向かって吹き出さしそうにな
ったが、それだけはなんとか堪える。
どうにか成し遂げた己の根性を、とにかく秋山は拍手したいくらいに褒めてやりたい衝動
に駆られた。
なんだそれは。
どういう記念日なんだ。
いやまて、そうではない。
(こいつの名前を初めて呼んだ日?)
今一度、記憶を総浚いしてみる。
直と出会ってから今日までの記憶を事細かに、綿密に。
しかしながら、それに適合するものは一つもない。
(俺、こいつのこと名前で呼んだことがあったか?)
意識していたわけではないのだが、名前を呼ぶことは敢えてしていなかった気がするのだ
が、無意識に口にしていたことがあったのだろうか。
それを覚えていないというのであれば由々しき問題だったが、それらしい記憶はない。
しかし直が嘘を吐くとは思えないので、覚えていないだけで彼女の言の通りであるのなら
一年前の今日、それを実行した、ということになるわけだ。
(一年前………? まてよ、一年前ってことはゲームの最中だろ)
これは間違いない。
しかし、さらに困惑は深まる。
当時は今よりもさらに秋山は直とそれなりの距離を保っていたはずで、余計に名前で呼ん
だことなどあり得ないはずだが。
「本当に覚えてないんですか?」
「覚えてないって言うかさ………俺、おまえのこと名前で呼んだ? 本当に?」
「呼びましたよ。みんなの前で、『カンザキナオ』って」
「………はい?」
茶碗を手に取り赤飯を口に運びながら、直は訝しげな秋山に気付いているのかいないのか
にこにこと笑顔を絶やさず、本当に嬉しそうに言った。
「嬉しかったんですよ、私。秋山さんに名前を呼んでもらえて! 秋山さんったら私の名前
知らないんじゃないかって思うくらい全然呼んでくれなんですもの」
ようやく、秋山にも納得がいった。
確かに言っている、言ってはいるのだが、しかし。
(あれを、カウントするのか、おまえ)
名前ではなく、フルネームで呼んでいるのも、名前がそこに組み込まれているのなら、そ
れでOKということになるらしい直に、秋山は言うべき言葉が見つからない。
直の発想もなんとも恐るべきものだったが、出会ってからすでに一年以上が過ぎ去って尚
いまだに、今日に至るまでまだ一度として名前、のみで呼んだことがないというのもある意
味で恐ろしい話ではある。
が、それ以上に恐ろしいのは。
(あれで、赤飯炊くってことは、名前だけで呼んだらその日には何をするつもりなんだ、こ
いつは)
考えるといよいよ怖いことになりそうで、秋山は自主的にそれ以上の思考の発展を抑え、
シャットアウトした。
「どうですか? 自分ではいい出来だとおもったんですけど」
「うん、美味しいよ」
「よかった!」
初めて炊いたからちょっと自信なかったんですけど、と嬉しそうににこにこ笑いながら、
直は自分の分に手をつけ、美味しいです、と笑顔を深める。
秋山もその笑顔につられて、自然と口角を緩めた。
自分が彼女を名前だけで呼ぶ日が来たとして、それを彼女がどんな風に祝うか、について
はこの際その日が来るまでは考えるまい、と彼にしては実に後ろ向きな対処方法を選択した
結果のことだったけれども。
その数日後に、秋山は己の浅はかさを思い知ることとなる。
「………今日はなんで、赤飯なわけ」
「秋山さんが、私の名前を二度目に呼んでくれた日なんです!」
とりあえず、とっとと彼女のことをフルネームではなくきちんと下の名前で呼べるように
ならないことには、毎年こんな風にその二日間をお赤飯でお祝いされることになるんだろう
な、と、奇麗な色に炊きあがったそれを口に運びながら、深い深い溜息を落とした秋山が、
はたしてそれを実行するまでにどれくらいかかったか、については、彼の名誉のためにここ
では語らない。
そして結局、今度は『秋山さんが直と初めて呼んでくれた記念日』が出来上がることにな
るだけだろうという予測が見事に的中してしまうことに、彼が溜息を吐くことになるのは、
言うまでもないことか。
出し惜しみするからそういうことになるんだと、笑いながら言い放ったフクナガに対して
秋山が如何様なる対応を取ったのか、これについても、秋山そしてフクナガ両名の名誉に為
に、ここでは語らぬこととする。
げに恐ろしきは、天然の無邪気さ、ということになるのだろうか。
赤飯の赤が目に染みる記念日なのだった。
-END-
夕食がお赤飯だったので。
別に祝い事があったわけでなく、ささげを御近所さんが作ったとかで
そのお裾分けを頂戴したので、作ってみたとういだけの話(笑)
タイトルは「いきなり雷鳴鳴り響いたもんだもんから、耳を覆う暇もないよ」
という意味で、降りかかった事態があんまりにも急なもんだから、
それに対しての対策を講ずる暇もないわよ! という喩です。
直ちゃんの攻撃は、常にこんな感じで秋山さんを打ちのめすわけで。
がんばれ。