■Browallia■
暖炉は、とても静かだった。
何時もならば赤々として居間を暖かくしてくれるはずの、お喋りな炎は、そこにいない。
いまや契約から解き放たれた身の上なのだから、必ずしもそこにいるとは限らないといえばそうな
のだが。
「カルシファー、どうしちゃったの?」
夜も更けて、時計の針が新たな一日の始まりを示す時刻を指し示してから一時間も過ぎた頃。
動く城の住人たちは、皆、居間の暖炉の前に集まっていた。
ハウルやソフィーは勿論のこと、寝ぼけ眼のマルクルも、すっかり目が覚めているらしいおばあち
ゃんとヒンまでもが。
揃って、同じように見つめていた。
その場所でいつもならば暖かく燃えているはずの暖炉の主のいない、燃えかけの薪だけが転がる場
所を。
「ハウル」
不安げに自分を見上げてくるソフィーに、ハウルは難しい顔で辺りを探るように意識を飛ばしてみ
たものの、芳しい結果は得られず溜息を一つ落とす。
「城の中にはいないようだね。気配がまったく感じられない」
今は互いに縛り合うことのない関係でも、ハウルとカルシファーには一種のシンパシー、共鳴関係
がある。
そのハウルにまったく感じ取ることが出来ないということは、少なくともカルシファーがこの城の
近辺にも存在していないことは明らかだった。
「お師匠様、カルシファーは何処に行っちゃったんですか?」
「それがどうも、妙なんだよ」
ことの始まりは、その助けを求める悲鳴だった。
静寂を切り裂いて、城の住人全ての耳に飛び込んできた、声。
「助けてハウル、ソフィー!」
たった、それだけ。
慌てて飛び起きた家族たちが暖炉の前に駆けつけたときには、すでにその姿は綺麗に消え去ってい
たのだ。
気配一つ残さずに、だ。
「こんな時間に出歩く………なんてないわよね」
「カルちゃんはあれで、けっこう夜は早寝だからねえ」
それに自分で出て行ったのなら悲鳴なんて上げなかったはずだ。
ハウルではあるまいし、家族を驚かせるためにそんな演技をするような性格でもない。
「誰かに連れ去られた、って考えるのが妥当だろうね」
「カルシファーを!?」
星の子としての自分を取り戻したカルシファーだが、その魔力は以前に劣らず、むしろそれ以上の
ものを持っている。
その力をして、黙って連れ去られるなど相手はどれほどの力の持ち主なのか。
「マダム=サリマンだって、そう容易くはないだろうね」
「じゃあいったい、どうして………」
マルクルとソフィーのその問いに、すぐに返される答えは、何処にもなかった。
「どうしたの? カルシファー」
「うーん、なんだかヘンな感じがするんだよなー」
いつもと炎の具合が違うことに気付いて、ソフィーは心配そうに薪をくべながら声をかけた。
朝昼晩と、食事の支度をするたびにカルシファーの力を借りているだけに、彼の様子がおかしいこ
とに気が付いたのも当然のことだったろう。
「ヘンな感じって、どんな?」
「なんかさあ、妙な気配を感じるんだ」
「魔法?」
「違う違う。魔女や魔法使いだったらこの城には近づけないよ! オイラが結界を張ってるんだから
な!」
「ええ、そうね。でもじゃあ、いったい何かしら?」
「それが分かんないんだよー」
ぼわっと炎を大きく燃え上がり、カルシファーは大きな溜息を吐いた。
「うう、気持ち悪いよー」
「まあ、大丈夫? カルシファー!」
本当に具合の悪そうな様子に、ソフィーは慌てて暖炉に近寄りそっと手を伸ばす。
すると炎はふわりとその手の平の上に移動して少しだけ火の勢いを弱めた。
「平気だけどさ、分からないってのは、苛々するよ」
見えない何かの正体が、まるでチリチリと背中を焼け焦がしているようだ、と呟くカルシファーに
ソフィーもいよいよ心配になってくる。
だが生憎と魔法を使うことなど出来ないソフィーにはどうしようもなく、ハウルも今は請け負った
呪いの仕事をするために南の町まで出向いてしまっていて不在なのだ。
「ハウルが戻って来たら、相談してみましょう?」
「えー? いいよ。別に。何がどうってはっきりしてるわけじゃないし、ハウルにだってどうしよう
もないさ」
「だけど」
心配そうな顔をするソフィーに、カルシファーはぼうぼうと燃える勢いを増してみせた。
「本当にヤバイことになりそうなら、オイラから言うよ。それにこの城を守ってるのはオイラなんだ
からな!」
それはカルシファーのこの城での役割なのであり、ハウルに相談するなどそれこそプライドが許さ
ない、とばかりに炎を吐くものだから、ソフィーも無理強いは出来ない。
それに、もし本当に何かあるとしたら、ハウルは何も言わなくてもきっと何かしらを感じ取ってく
れるだろう。
だから、ソフィーもとりあえず今はカルシファーの意志を尊重することにした。
「気持ち悪いのはどう? 特別大きな薪をあげるわね」
「もう平気さ」
くべられた良く乾いて太い薪に、カルシファーは嬉しげに声を上げて喜んだ。
その様子はいつもと変わらず、どうやら大したことにはならずに済みそうね、と心の中でソフィー
はほっと安堵していた。
夜になってハウルが戻り、夕食を皆で取る頃にはすっかりカルシファーもいつと変わらぬ様子をみ
せてたいから、てっきりもう大丈夫なのだと思っていたのだ。
けれど。
「ハウルに、ちゃんと話をしておけば良かったんだわ」
「それは違うよソフィー。もし何かしらあったのなら僕が気付かないわけがないからね。それにカル
シファー自身、そのことはすっかり忘れていたようだし」
「でも」
「おやめよソフィー。こういうのは誰が悪いってことにもなりゃしないんだ」
「マダムの言う通りさ。それより、問題なのは僕がまったく気付けなかった、ってことの方だね」
魔力の気配はやはりない。
悪意も策謀もそこには感じられない。
むしろ、いっそカルシファーは自分の意志で暖炉を離れて散歩に出かけているだけなのだ、と言わ
れた方がしっくりくるほどに。
(でも、カルシファーの意志じゃない)
聞えてきた悲鳴。
そして、残された炎の気配。
連れ去れた、と見るのが一番適しているのだが………では誰に?
ハウルは難しい顔をして黙ったまま暖炉を眺めていたのだが、不意にふとその顔を上げた。
「考えてみても始まらないね」
「ハウル?」
「ソフィーやマルクルたちはここで待ってておくれ。ちょっと後を追ってみる」
「追ってみるって、どう言うこと?」
その問いには答えず、ぽん、とソフィーの肩を軽く叩き、ハウルはくるっと踵を返し城に新しく増
やされた庭に足を進める。
その後を慌てて追いかけたソフィーは、彼が宙に浮かび上がる前になんとかその腕を取って止める
ことに成功した。
「ハウル、ちゃんと説明して!」
でなければ心配でどうにかなりそうよ、と訴えるソフィーに、ハウルは苦笑しながら応える。
「かすかになんだけれどね、カルシファーの気配が残ってるんだ。それを辿ればあるいは」
「カルシファーのところに行けるかもしれないってことね?」
「うん。行って来るよ」
「私も行くわ!」
「ええ?」
驚いた、と言うよりはやはり、と言う気持ちの方が多分に、大きかった。
だが絶対に行くわ、としっかり自分の腕を掴んでいるソフィーに、ハウルは困った顔になる。
腕を掴まれたときから予想していたとではあったが、やはりそうきたか、と言う表情だ。
「カルシファーのことが心配なのはハウルだけじゃないのよ? このお城ごと後を追うことはできな
いんでしょう?」
「城を浮かべて置くだけなら僕の力でなんとかなるけど、移動させるとなると、カルシファーの力な
しには無理だろうね」
無理をすれば出来ないこともないだろうが、それはハウルの力を大きく削ぐことになるだろう。
魔法使いにとって魔力の減退はそのまま肉体の疲弊に直結してしまう。
いくら以前のように狙われるような立場にはないとは言っても、大魔法使いとしての名を持つハウ
ルはそれだけで何処の誰から思いも寄らぬ手出しを受けるともしれない。
それだけに、城を守る結界を危くさせるようなことはしたくなかった、と言うことまではソフィー
には言わずにおく。
しかし、かつてはそのハウルを狙いこの城の結界の対象の最たる存在であった荒地の魔女には、全
てがお見通しだったようで、ちらっと意味ありげにハウルを見たかと思うと、すっと椅子から立ち上
がってカルシファーのいない暖炉に手をかけ、空虚なその場所を見つめながら言った。
「城のことなら心配ないさ。あんたの結界はあるし、魔力はなくなってもあたしにゃ魔法具を扱うこ
とくらいはできるからねえ」
「僕もヒンと一緒にお城を守ってます!」
つまりは、ソフィーも一緒に連れて行ってやれと、そう言うことなのだろう。
おばあちゃんとマルクルにまでこう言われては、ハウルもソフィーに待っていろ、とは言えなくな
る。
危険が感じられるのなら何があっても城に残るようにと言い聞かせ、それを聞き入れなくてもソフ
ィーを連れてなど行かなかっただろうが、しかし。
残された気配に、悪意の類は感じられない。
それを今一度確かめた上で、ハウルは小さく溜息を落とした。
「待ってろって言っても、聞かないよね」
「ええ」
当然よ、と言わんばかりに自分を見つめてくるソフィーに、ついにハウルは諦めたようにその手を
伸ばしてそっと手を取る。
「行って来るよ、マルクル。後は頼んだからね」
「はい! お師匠様もソフィーも気をつけて下さいね!」
「お願いね、マルクル、おばあちゃん」
「カルちゃんのことを頼むよ」
その会話が終わると同時に、ソフィーの身体はふわりと宙に浮き上がった。
いつかのようにハウルに支えられて、気が付けば自分の身体は星空の中にあることにソフィーは驚
きのあまり声も出すことも忘れた。
だが、空中を歩き出す感覚に最初こそ途惑ったが、すぐにソフィーはやはりあの時と同じようにハ
ウルに合わせて足を動かし始める。
「上手だ」
「ハウルったら」
あの時と同じように優しい、しかし何処か揶揄うような響きのある声に、ソフィーは少しだけ頬を
膨らませてその顔を見上げたが、すぐに真剣な顔になった。
「カルシファーが居る場所はそんなに遠くないの?」
「どうして?」
「だって、遠いのならこんな風に歩いてなんていかないでしょう?」
「ソフィーは鋭いなあ」
言いながら、ハウルの目は夜空の闇のその向こうを見る。
「見える?」
「え?」
促されるようにして視線を上げれば、夜の中に沈むようにして聳える大きな建物がある。
キングズベリーならいざ知らず、この町では目を引く建物だ。
「立派なお屋敷ね」
そして、自分の手を取って歩くハウルを再び見た。
「あそこに、カルシファーが?」
いつの間にか、空を歩く足は止まっている。
「多分ね」
「魔法使いが、いるのかしら」
この町に生まれたときから暮らしているソフィーだったが、魔法使いが済んでいる、と言う話は聞
いた事がない。
呪いを請け負う魔法使いに会うには、隣町までいかないといけなかった。
だからハウルに初めて出会った日に魔法を見せられて、どれほど驚いたことか。
心臓がいつ飛び出してもおかしくないほどにドキドキしていたのは、何も初めて体験した魔法のせ
いだけではなかっただろうけれど。
「いや、いないね。気配がない」
即座に返された答えはソフィーの記憶に則していたが、しかし訳が分からないことには何の変わり
もなかった。
魔法使い、ないし魔女はいない。
けれどカルシファーはあのお屋敷にいる。
最後に残された彼の悲鳴は、明らかに無理矢理連れ去られたものだった。
どう言うことなの?
ソフィーは散々考えて、それでも答えが出せずにハウルを見上げる。
すると、再びハウルの足が動き出したことに気付いて慌てて足を前に出した。
「ハウル?」
「とにかく、事情は当人から聞くしかないだろうね」
どうやらハウルにも分からないらしい。
「静かにね。一応、不法侵入ってことになっちゃうから」
「まあ」
確かにハウルの言う通りだと、ソフィーは慌てて口を閉じて息まで殺してしまう。
あまりそうしたことはしたくはないが、だからと言って正面から訪問して、火の悪魔はいませんか、
などと聞くわけにもいかないのだから、仕方がない。
そっと音を立てないようにしながら二人はゆっくりと屋敷の上を歩き、そして広い庭に面したある
部屋のバルコニーに静かに降り立った。
窓は閉じられ、その向こうには落ち着いた色合いのカーテンがかかっている。
そして、そのさらに向こうからぼんやりとこぼれてくる光は、淡いオレンジ色をしていた。
「あ、あれは!」
「どうやら、間違わなかったようだ」
窓には鍵が掛かっていなかったのか、それともハウルが魔法で開けてしまったのか、どちらにせよ
それは軋みもあげることなくそっと開かれる。
ふわり、とカーテンはその開かれた窓から吹き込んだ風によって大きく揺れ、裾をはためかせた。
そしてその向こうには。
「カルシファー!」
思わず大声を出しそうになるのを咄嗟に堪えて、それでもソフィーは見慣れた炎の燃える姿にほっ
としてその名を呼びかけていた。
すれば、ゆっくりと炎は………カルシファーは振り返る。
ソフィーやハウルがバルコニーに立っていることに、驚く様子はない。
まるで最初からわかっていたかのように、ゆらゆらと二人を見て何も言わずに燃えている。
「………カルシファー………?」
普段とはまるで違った様子を見て、二度目の呼びかけは酷く小さく気遣うような響きがあった。
「………ソフィー、ハウル………」
それを聞いて、ようやっとカルシファーは声を発したが、はやり動こうとはしない。
いったいどうして?
そう思いながら一歩前に足を踏み出したソフィーは、そこに見た。
大きな、大きな、柔らかい色彩のベッドカバーに覆われた寝台と、そして。
そこに横たわっている、小さな小さな、人影を。
next
ハウル×ソフィーと言うにはちょっと難がありますね。
しかも続きます。一気にアップしてもいいんですが
なんとなく半分にしてみました。
で、オリキャラ出てます。すみません………
優しい悪魔のカルシファーのお話と思って下さいませ。
以上、旧ハウルサイトに掲載したときのコメントでした。
2005年2月19日作成。
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