人間の身体って不思議なんだよ とてもね 魔法なんかよりずっと未知の秘密に満ちてる だから魔法使いは誰もがその秘密を解き明かそうとするんだ 誰も、深淵の奥底に隠されたものへ 辿り着けたことはないけれど■Browallia -4-■
窓の外を見れば、もうすっかり深い闇に覆われた世界が広がる中で。 魔法使いの部屋の中にはたった一本の蝋燭もないのに、天井から吊るされた不可思議な色を煌め かせる丸い形をしたものがそっと満たす光によって昼のように十分に明るくあった。 以前の彼が暮らしていた部屋よりもやや広いように感じられるのは、その頃には部屋中を埋め尽 くしてた雑多な所謂呪いの魔除けが殆ど取り払われてしまったせいなのか。 まだ名残のようにいくつか残されているもの達は、魔除けの目的と言うよりはその美しい姿から 室内の装飾を目的として残されているようだ。 クルクルと回る金の冠のようなもの、時折透明な音を立ててはめ込まれた石を輝かせるモビール、 そのほかにも幾つも。 独特な雰囲気を醸しだすそれらが見守る中、ハウルは真剣な面持ちで何かを見つめている。 「ハウル? 入るわよ?」 コンコン、とノックの音に続いて、柔らかい声がそう告げれば、カチャリ、と扉は開かれた。 ついっ、と初めてそこでハウルの顔が動き、視線をゆっくりとそちらへ向ける。 「マルクルは、もう寝たの?」 「ええ。おばあちゃんと話をして、やっと納得できたみたい」 迎えに行った筈のカルシファーを伴わずに戻って来たハウルとソフィーに、マルクルはもうカル シファーは城に戻ってこないのでは、と言う不安を抱いたのは無理もないことだったろう。 なんとかそうではないことをソフィーは上手く説明することができなかった。 そこへ荒地の魔女として畏れられただけに、多くを聞かずとも凡そのことを見抜いていたらしい おばあちゃんが助け舟を出してくれたお陰で、なんとか丸く収めることができたのだ。 「そう。ごめんねソフィ−。本当は僕がしなきゃいけなかったのに」 「私は何もしてないわ。おばあちゃんにそう言ってあげて」 「そうだね」 頷く様に笑ってみせたハウルは、ソフィーが手にマグカップを持っていることに気付いた。 視線の動きにソフィーもその存在を思い出し、静かにハウルが座り込んでいるベッドへと歩み寄 ると、湯気の立つそれをハウルに差し出して微笑みかける。 「温かいミルクよ。一休みした方がいいわ。あんまり根を詰めると良くないもの」 「ありがとうソフィー」 受け取ったマグカップを両手で包み込むようにして、ハウルはそれを口へと運んだ。 暖かなものが体中に広がっていくのが分かり、じんわりと心の中まで温まるような気がして、自 然とハウルの表情が緩む。 だが、一口それを飲んだだけで、ハウルはベッドから降りようと身体を移動させた。 「ごめんね、本で部屋を一杯にしちゃって。すぐに出て行くから、ソフィーも休むといいよ。すっ かり遅くなっちゃったから、明日は皆で少し寝坊しよう」 「ハウル」 だが、それを先んじて動いたソフィーの手が、止める。 やんわりと、でもはっきりとした意志を持ってソフィーの手はハウルのベッドに置かれていた手 に重ねられ、下から覗きこむようにして見上げてきた瞳に、ハウルはそれ以上動くことが出来なく なった。 かわりに、と言うわけでもないのだろうが、少しおどけた様子で微笑みながら言葉を綴る。 「怒らないんだね」 「え?」 「だって、いつもは僕が本を出しっぱなしにしておくと、片付けなさいって怒るだろう?」 茶化すような口調のそれに、ソフィーは少しだけ困ったような笑みを浮かべた。 「それはあなたが、用のなくなったものでもそのままにしておくからよ。でも今は違うでしょう。 この本全部………お医者様の本なのね。このお城にこれだけの医学書があるなんて知らなかったわ」 「僕も知らなかったよ」 「まあ」 「本当さ。こうやって改めて集めてみると、思いの外多くて自分でも吃驚した。別に集めようと思 っていたわけじゃないんだけどね。気付いたらいつの間にか集まってたってことだね」 「医学に興味があったの? それとも魔法使いってみんな医学も学ぶものなの?」 「どっちもそうだ、って言えるかもしれないかな。僕がこうしたものに関心があったのはその通り だし、魔法使いが一通りの医学を修学するのは必須のことだしね」 ハウルの説明に、そうだったの、とソフィーは少し驚いたように目を見開いて首を傾げる。 魔法使いになる為にどうして医学が必要なのだろう、と不思議に思う気持ちがそこにははっきり と浮かんでいた。 「不思議?」 「そうね………ちょっと意外。魔法ってそういうものとは正反対のイメージがあったから」 「そう言う風によく思われてるみたいだね。無から有を生み出す文字通りの種も仕掛けもない魔法 に不可能はない………って言えたのなら凄いことだろうね」 わざと生真面目に言うハウルの、けれどその目は笑ってなどいなかった。 もしも魔法に不可能がないのなら、きっとこの世界はもっと美しかったか、もっと醜かったか。 どちらにせよ何一つとして叶えられなうものなどないと言うその世界に、果たして未来はありえ たかと、そう問うことはとても恐ろしいものがあった。 心の中に生まれてしまったものを押し隠すようにして、ハウルはソフィーに一冊の本を持ち上げ てみせる。 「魔法使いってね、ちょっとした医者程度の医学知識はあるんだよ」 「それは魔法を使うのに必要だからなのね?」 「うん。医学に留まらず、魔法を正しく使うにはこの世界に関わる色々な決まり事や連なりを知ら なくちゃならないんだ。だから多くの魔法使いは魔法学校に入学してその基礎を学ぶのさ」 僕も通っていたことは前に言ったよね、と言いながら、ハウルは持っていたマグカップを傾けて 残っていたミルクを飲み干すことで一度言葉を止める。 そのやや長い沈黙を、ソフィーは静かに黙って待った。 急かすこともなく、言葉を求めることもなく。 榛色をした瞳に映る自分をゆっくりと視線を返してそこに見たハウルは、あまりにもまっすぐな それに苦笑を覗かせながらようやっと口を開いた。 「あの子のね、病気をどうにか出来ないかなって思ったんだ」 寝室を本の海にしてしまった理由がそうであることは、ソフィーも最初から分かっていたことだ ったのでハウルの言葉に一つそっと頷いてみせる。 「あのお屋敷、とても大きかっただろう? あの子の両親はこの町でも指折りのお金持ちで、両親 は金に糸目をつけずに世界中の優れた医師にあの子を診せたんだけれどね、結局、どれも病を治す には至れずにせいぜい少しだけ寿命を延ばすに過ぎなかった」 どうしてそんなことを知っているの? と思ったソフィーだったが、すぐに思い出した。 ハウルがあの子に手を翳していた姿を。 (あの時にきっとそうした事を知ったのね) 「本職の医者がどうしようもなかったことを、ちょっと知識があるだけの僕がどうにかできるわけ もないのにね」 「ハウル………」 自嘲するような笑みをみせたハウルを、彼が座り込んでいるベッドの端に腰掛けたソフィーはそ っと労るように覗き込んで頬に柔らかく触れるだけのキスをした。 「そんな顔をしないで」 「ありがとう、ソフィー」 嬉しそうに微笑み返して、ハウルは持っていた本を軽く放るようにしてベッドの上に投げ捨てる。 他にも同じようにして散らばっている本に、ソフィーはそっと視線を巡らせた。 どれもこれも、彼女には到底読み解けそうもないような難しい本ばかり。 ハウルを悩ませきっと著名で腕の在る多くの医者もが匙を投げたという病とは、どんなものなの だろう。 「………あの子の病気はそんなに重いの?」 「隠してもしょうがないことだから、正直に言うとね、あと、一週間もつかどうか………だと思う よ」 ハウルがそっと告げたそれは、ある程度覚悟してはいた言葉だったが、ソフィーは思わず息を呑 んで身体が強張るのが分かった。 「生まれつき、だと言ってしまえばそれまでなんだろうね。あの子の身体は長く生きられるように は作られずに生まれてきてしまったんだよ。どんなに頑張っても十数年。それが限界」 「そんなことって、あるの?」 「うん。人間の身体って不思議なんだよ。とてもね。魔法なんかよりずっと未知の秘密に満ちてる。 だから魔法使いは誰もがその秘密を解き明かそうとするんだ。誰も、深淵の奥底に隠されたものへ 辿り着けたことはないけれど」 僕も同じさ、とさりげなく言ったハウルに、ソフィーはただ重ねた手を強く握ることしか出来な い。 魔法と言うものにまるで知識を備えていない彼女には、ハウルの魔法使いとしての限界を語る心 の全てが分かるわけではなかったが、魔法使いである、と言うことを抜きにして考えるのなら自分 とそんなに変わらないのだと言うことだけは感じ取れた。 どうすることも出来ない、自分の無力さを突きつけられたときの、その気持ちはきっと、魔法使 いだろうとただの人間だろうと大きな違いなどないだろうと。 「………聞かないんだね」 「え?」 どれくらい、二人ともが沈黙を守っていただろう。 不意に語られたハウルのその言葉に、ソフィーは本当に驚いて目を丸く見開いた。 何を、聞かないと彼は言うのだろう。 ソフィーはよくよく考えてみたが、何も思いつけない。 だからその疑問を表情に乗せたまま、ハウルを見た。 「それは、どう言う意味なのハウル。私が何を聞かないってあなたは言うの?」 「ねえソフィー。君は時々すっかり忘れてしまうときがあるけど、僕は魔法使いなんだよ」 「ええ、そうね。あなたは稀代の魔法使いだって言われて本当にすごい力を持ってるくせに、時々 どうしてかマルクルより手の掛かる子供になってしまうから、つい私も忘れてしまうんだわ」 その場にあった重いものを取り払おうとするように、務めて明るい声でソフィーが言えば、ハウ ルは酷いなあ、と苦笑めいたものを浮かべてみせる。 けれど、それはけして本心からの笑みではないとソフィーにも分かっていた。 それが証拠に、次の瞬間にはもう、ハウルの顔には重いものが浮かんでいたからだ。 「君は、聞かないんだね、ソフィー」 さっきと同じ事を、繰り返す。 「ハウル、だから何を………」 「あの子の病を、魔法で治すことは出来ないのかって」 ソフィーが言いかけた言葉を遮るようにして、ハウルはとても静かで落ち着いた、けれどどこか 重い声でそう、言った。 瞬間、ソフィーは口を閉ざす。 下唇を微かに噛み締めるようにして、感情の読み取れない硝子玉のような蒼い瞳にひたり、と自 分を映しているハウルを暫くの間ただ見つめ、そしてゆっくりと顔を俯かせるようにして視線をハ ウルの顔から重ねていた手へと落とした。 「………もしも」 「え?」 「もしも、そんな事が出来るのなら、あなたはとっくにやっていたでしょう? だってハウルもカ ルシファーもとても強い力を持っているんですもの」 「あんまり僕を買いかぶらないでおくれよね、ソフィー」 「ハウル、あなたは私がうっかり料理をしていて手を切ってしまった時にはすぐに治してくれたわ。 マルクルが転んで膝を擦り剥いた時だって。でも、私が風邪をひいた時には熱を下げる呪いや身体 を楽にしてくれる薬は調合してくれたけれど、風邪を魔法で治してしまおうとはしなかったわね。 それはつまり、魔法で外面的な怪我なんかを治すことは出来ても、内側のこと………風邪やそうい った病気を治すことは出来ない、ってことなのではないの?」 「ソフィーは鋭いね」 握られた手を見やり、それからゆっくりと顔を上げたハウルは、微笑んでいた。 どこかとても、切ないものを孕んだ表情で。 「その通りだよ。ソフィーの言う通り、魔法の治癒って言うのは、人が本来持っている自己治癒能 力を高めることなんだ。ほら、僕があの花畑の花達にちょっとだけ力を貸してるって言ったよね? あれと同じで、人が自然に傷を癒し元の状態に戻るために作用する力に働きかけて、その速度を速 めることで傷を治したり怪我を塞いだりするんだよ。でも、勿論それにも限界はある」 「限界? 魔法の強さにと言うこと?」 「いいや、そうじゃない。例えどんなに優れた魔法使いでも、その怪我を負った人が元々持ってい る治癒能力以上のことは出来ないってこと」 そこでハウルはソフィーの手を取った。 「君が言ったように、ナイフで指先を切ってしまった、なんて傷だったら僕の魔法を使えばすぐに 治る。でも、例えば同じナイフが身体を深く貫いたことで受けた傷は、そう簡単にはいかない。魔 法で無理にその人の治癒力を高めたとしても、今度はその無理が身体に影響して体力を奪い生命維 持そのものを危くしてしまうからね。人の身体が保っているバランスはとても上手く出来ているん だ。だから、それを故意に崩せば反動も大きいんだよ」 「つまり、傷を治そうとすることで、反対に命が危なくなる、って言うことなのね?」 「そう言うことだね」 ハウルは、頷くかわりに笑ってみせる。 酷く痛々しいその表情に、ソフィーは掛ける言葉が見つからない。 初めて耳にした話だったが、魔法使いであるハウルが抱えているジレンマを垣間見たような気が した。 魔法と言う力を手にしていても、不可能なことは必ずある。 世の心理を追及し万能たらんとする探求者ともされる魔法使いの、それでも手出しのならないも の。 強い力を持っていればいるほど、きっと自分の力とそうしたものとの間にある深い深い河をまざ まざと思い知らされるのに違いない。 結局どうしていいのか分からないまま、ソフィーはそっとハウルの身体を抱き締めていた。 自分より大きい相手であるのに、なんだかマルクルを抱き締めているように小さく感じるのは何 故なのかしら、と思う。 「………………あのね、ソフィー」 その時、だった。 不意にハウルが、声を出したのは。 「なあに、ハウル」 苦しそうな声だと、思った。 何かに押し潰されそうになっている声だと。 だからソフィーは出来うるだけ静かで優しい声を返す。 そんな彼女の気持ちを、果たしてハウルは感じ取っていたのかどうか。 「出来るんだよ、本当は」 「え?」 一瞬、何の事なのかまったくソフィーには分からない言葉だった。 その次に続くハウルの、やはり苦しげな声を耳にするまでは。 「出来るんだよソフィー。あの子を死に追いやろうとしている病を消し去ってしまうことは」 そして見つめてくる、蒼い瞳に沈んだ闇。 「僕にも、カルシファーにもね」 闇夜に浮かぶ蒼白な月の投げかける光の中で、とてもはっきりとソフィーは見て取ることが出来 た。 辛うじて笑みを象っている、その瞳の奥に。 深い暝い蒼い闇を。
2005年4月1日作成。 back