だけどこれだけは覚えておくんだよ
 命はどんなものだろうと
 二度生まれることも 
 二度死ぬことも出来ない
 たった一度の誕生とたった一度の死
 それが神様ってものから与えられた
 最上の恩恵ってものなんだってことをね





■Browallia -5-■
 暖炉にカルシファーの姿が居ない日々が、数えて三日目の夜。  その日も、静かに闇が夜の深さを教えるようにして月の影の向こうに明日を呼び入れるための時 を重ねていく。  そして、星の海と呼ばれる湖の滸に降り立った動く城は、その空へと舞い上がることなく三つ目 の夜の底に静寂をまとって眠っていた。  いや、そう思われていたけれど。 「おばあちゃん」 「おんやマルクル。あんたまだ寝てなかったのかい?」  寝巻き姿で現れた小さな来訪者に、おばあちゃんは読んでいた本から目を上げて言葉ほどは驚い た様子もない声をかけた。  その声に勇気付けられたように、けれどまだ少し躊躇うようにしてゆっくりと枕元までやって来 て、ようやく、伏目がちだった顔が上げられる。 「………眠れないんだ」  ヒンを伴って、暖炉のあるおばあちゃんの部屋に来たマルクルは、酷く心配そうな顔をしていた。  原因は聞くまでもない。   戻らないカルシファーのことが気になっているんだろう。 「やれやれ、子供はも寝てなきゃいけない時間だねえ」 「………だって………」 「あの二人が言っていたろう? 心配しなくてもちゃんとカルちゃんは戻ってくるよ」 「それって何時?」 「さあねえ」  マルクルの真剣な面持ちとは対照的に、おばあちゃんはどこか飄々とした顔で軽く肩を竦めてみ せた。 「それは分からないねえ。ただカルちゃんのするべきことが終わったら、ちゃんと戻ってくること は確かだよ」 「カルシファーは、今何処にいるの? するべきことってなに?」  何一つとしてはっきりしたことを教えてもらっていないマルクルは、横になっているおばあちゃ んの枕元もたれるようにしてじいっと見つめてそう問いかける。  その答えを探すかのように、おばあちゃんは視線だけをぐるりと天井から窓の外へと巡らせた。 「そう遠くじゃないさ。この町の何処かだからね。何処か、までは私も知らないけどね。でも、今 カルちゃんはとても難しい仕事をしてる最中なのさ。大丈夫、大丈夫。難しいけどカルちゃんなら なんとかするさね」  おばあちゃんの言葉に、少しだけマルクルの表情は安堵したような、けれど今度は別の心配を抱 えてしまったような微妙なものになる。 「難しいって、どんなことなの?」 「そうだねえ、マルクルにはちょーっとばかり早いかねえ」  だけど、あんたも魔法使いの見習いなんだから、早いってこともないのかもねえ。  独り言のように呟くと、おばあちゃんはよいしょ、と上半身を起こした。  マルクルは少し離れた場所にあった椅子をゴトゴトと動かし、枕元まで運ぶとそこに腰掛ける。  ヒンは何時の間にやらおばあちゃんの足許に既に丸くなっていた。  そうして小さな魔法使いと長い時を重ねたかつては荒地の魔女とも恐れられた二人が、向かい合 う。 「さて、マルクル、あたしがこれから一つ質問するからよーく考えて答えるんだよ」 「うん」  こくん、と素直に頷くマルクルに、おばあちゃんは少しだけ微笑んだ。 「いいかい、あんたの目の前に、弱り果てて今にも死にそうな病人がいる。怪我人でもいいよ。と にかく、もう幾許も命が残されていない誰かがいるんだ。それはあんたの良く知っている人でもい いし、まったく知らない人でもいい」 「死んじゃうってこと?」 「そうだね、なにもしなけりゃ、いいや、何をしてももう、助からないって状態さ」  果たしてマルクルはどんな状態の誰を想像したのだろうか。  眉が寄せられて随分と難しい顔つきになる。  それを横目に見ながら、おばあちゃんは続けた。 「さて、問題はこれからさ。目の前にはもうじき死んでしまう人がいて、あんたはそれを見つけて しまった。そして、その助かりようもない人を、魔法を使えば助けられるかもしれない、としたら、 さあ、どうする?」 「助けるよ! だって、そうしたら死なないで済むんでしょ?」  当たり前だよ、とマルクルは考えるよりも早く答を出す。  それを最初からわかっていたように、おばちゃんは優しく笑った。 「そうだね。そう答えるだろうと思ってたよ。まだ何も知らないんだから当然さ」 「え?」   僕何か間違ってた?   そう言わんばかりに目を大きく見開いたマルクルの頭を、そっとおばあちゃんのしわくちゃの手 が撫でる。 「マルクル、よおく覚えておくんだよ」 「うん」  コクリ、と大きく頷く様におあばちゃんの目は少し笑った。  どこか、重いものを孕んで。 「人は………いや、人には限らないね。命のあるものは須らく、この世にただ一度生まれ来て、た だ一度死に逝くものなのさ」 「え?」  言っていることの意味が分からない。  一度生まれて一度死ぬ。 「それって、普通のことだよね?」  二回生まれることなんて出来ないし、一度死んでしまったらもう死んでいるのに、もう一回死ぬ なんて出来るわけもない。  マルクルの疑問は尤もなもので、おばあちゃんもゆっくりと頷いた。 「そうさ。それが自然の成り行きってものだからね。それこそがこの世界のもっとも底の底にある、 侵すべからざる理、魔法もそうでないものも全てが揺るがざる約束事として守らなきゃならないも のさ。だけど、それは絶対に侵すことが出来ない、ってものじゃあないんだ」  今度は一生懸命マルクルも考えた。  その言葉に込められたものはなんであるのか。 「………魔法で、死にそうな人を助けるのはいけないことなの?」 「簡単にいけないこと、っとは言えないね。医者とは違うけれど魔法使いや魔女が癒しの力を施す ことは古くからあったことさ。でも、それはあくまでも癒し、の魔法さ。治療の魔法じゃない。ま してや元通りに直すため魔法でもない。この違いが分かるかい?」 「僕、よく分からないよ、おばちゃん」 「おまえさんの年齢じゃそれも仕方ないさ。これからの時間を重ねていく中でゆっくりと自分なり の答えを見つけるんだね。だけどこれだけは覚えておくんだよ。命はどんなものだろうと二度生ま れることも二度死ぬことも出来ない。たった一度の誕生とたった一度の死、それが神様ってものか ら与えられた最上の恩恵ってものなんだってことをね」  それはマルクルにとって到底理解に及べない、難しい言葉が綾なすまさしく魔法の言葉のようだ った。  ただ分かったことはある。 「ハウルさんがあれからずっと、なんだか難しい顔して悩んでるのって、それのせいなの?」 「おや、気づいてたのかい? あれで、一応取り繕ってるつもりらしいけどね」 「分かるよ。だって、全然いつもと違うもの。それにソフィーが凄く、ハウルさんのこと心配して るし」 「あの子もしょうもない子だからねえ、どうせソフィーにも本当のことろは何も話しちゃいないん だろうさ。だから余計にソフィーも不安なんだろうにねえ」 「一度だけ生まれて、一度だけ死ぬ、ってこと?」 「まあ、そんなところさ」 「カルシファーも、悩んでるの? おばあちゃん」 「恐らく、ね」  皺だらけの顔に浮かぶ、深く刻まれた笑みには年月の生み出すそう容易くは推し量れないものを 孕んでいる。  まして幼いマルクルには、到底何をも読み取ることなどできよう筈がなかった。 「もう少し、待ってておやりマルクル。そして、カルちゃんが戻って来たら、暖かく迎えてあげる んだね」 「うん! だって、僕ら家族だもん」 「そうだねえ」  優しく笑うおばちゃんにつられたように、マルクルの顔にもやっと笑顔が戻った。  それはけして普段の彼のものと同じとは言い難かったけれど、それでも心に覆い被さっていたも のが少しだけ軽くなったのかもしれない。 「じゃあ、僕部屋に戻るね。ごめんね、本読んでたのに邪魔してごめんねおばあちゃん」 「大したことでもないさ。おやすみよ」 「うん………あのね、おばあちゃん」 「なんだい」  戸口に立って出て行きかけたところで、マルクルはくるっと身体ごと振り返り真面目な顔を見せ る。 「僕、一生懸命考える。よく分からないんだけど、でも、考える」 「そうだね、それでいいんだよ」 「うん。おやすみなさい」 「おやすみ」  すっかり寝入ってしまっているヒンはそのまま寝かせておいて、マルクルは一人自分の部屋のあ る二階へと上っていった。  それを薄く閉じた目で音だけを頼りに確かめて、おばあちゃんはどっかりと大きな枕に背中を預 ける。  ふう、とこぼれた溜息は何に対してのものだったのだろうか。  そして視線を、窓の外の夜闇へ。  何かを言いかけたまま、結局は何も音にはせずに、伏せられてしまった瞼の奥には、果たして何 を潜ませていたのか。  夜は深く果てしなく、そして遠い闇に包まれていた。  日が明けて、日が暮れて。  あれかられくらいした頃だろう。  見知らぬ人間が何人か、部屋を出入りした。  その中の一人は、多分母親って奴だと思うんだ。  ベッドの中の子に、何か話しかけてたけど、何を言っているのか見つからないようにこっそりと 窓のカーテンの陰に隠れていたオイラには聞えなかった。  白い服を着てる奴は、きっと医者。  脈を診て、それからなんだか知らないけどいろいろやって、それから母親と何か話して、そんで 二人は部屋を出ていった。  その後で食事だと思うものを別の誰かが持ってきたけど、結局手を付けられずにそれは下げられ て。  部屋の中がやっと静かになったのは、けっこう時間が経った後だった。  もう誰もこないことを確認してから、オイラはこっそりとカーテンの影から出る。  そっと覗いてみた相変わらず顔色の良くない顔には、ますます生気がなくなってた。  いらくも時間が残ってない事は、オイラでなくてもきっと、あの医者にも母親にも分かってるん だろうな。  こぼれていく砂は止まらない。  全部流れて空っぽになってしまっても、命の砂時計は逆さまにすることは出来ないんだ。 「………オイラの砂時計は、ハウルが逆さまにしたけど」  それは新しい命の始まりでもあったけど、同時に破滅への階段を昇りだした瞬間もでもあったん だ。  だから、きっと。  こんなことを考えるのは間違っているんだってオイラ、ちゃんと分かってるよハウル。  分かってるけど、分かってるんだけどさあ………  なんだか見てられなくなって、オイラはぐるっと部屋の中を見回した。  ハウルにも負けないくらいの本の数は、それだけこの子には他に何もすることがなかってことな んだろう。 「うわ、なんだこれ」  古い古い、こすれて文字が所々薄くなった本が一冊、枕の下に隠されるようにしてあることに、 オイラは気づいた。  汚くて手垢塗れで、それこそボロボロになっていて。  その本だけがこの部屋の中で妙に違和感がある存在だった。  気になって、なんでかどうしても気になって、オイラは魔法でひょいっと枕を動かさないように 注意して引き出し、近くのテーブルの上に置いて、うっかり燃やしたりなんてしないように注意し ながら覗き込んだ。  半分絵本みたいな内容で、中もやっぱり薄汚れてかすれていたけれど。  ちゃんとオイラにも読む事は出来た。  ああ、そうだったのかあ。  そして、やっと、知ったんだ。  やっと何もかもを。  そうか、星の子って、そう言う役目を果たしてたのかあ。  ああ、だから、だからなんだなあ。  分かったよ、ハウル、ソフィー。  オイラやっと分かった。  オイラがどうして、この子に引っ張られて此処に呼び出されたのか、その理由。  分かったけど………どうしたらいいのかなあ………  やっぱりオイラは絵本の星の子じゃないから。  どうにもしてやれないのかなあ。  ………星の子には、なれないのかなあ。  蝋燭の灯す明かりの元で最後の繕い物を終えたソフィーは、以前ハウルから贈られて大事にして いる可愛らしいお裁縫道具入れの蓋を閉じ、繕い終えた服を綺麗に畳む。  そしてその上にそっと手を置いて、視線を自分の手に落としたまま、ふう、と溜息を吐いた。  暖炉にはあるべき主の姿はなく、何処か寒々しい部屋。  早く戻ってきて欲しいと思うけれど、それは同時にカルシファーがあの屋敷に留まるべき理由を なくすことを意味していると思うと、ソフィーの心は複雑だ。  大きなお屋敷の、小さな部屋の中で起き上がることもままならない少女の姿が脳裏を過ぎる。  あれからもう三日が過ぎた。  ハウルの見立てが正しければ、いや、恐らく飛び抜けて優れた魔法使いである彼に間違いなどな いだろうから、あの子はあと数日で消え去る命を必死に今も燃やしているのだろう。  助けてあげたいと思う。  けれどソフィーに何が出来るだろうか。  稀代の魔法使いとして名を馳せるハウルですらもなす術がないと、寂しげに呟いてしまうと言う のに。 (………いいえ、ハウルは言ったわ。本当は治せるんだって)  ソフィーは、ちらりと彼が籠もっている部屋へと視線を投げた。  普段と変わりない様子を見せているが、彼が酷く何かに囚われて苦しんでいることはソフィーに も分かる。  あの晩、残り少ない命が今にも途切れんとしている少女の時を奪う病を、ハウルは本当は治せる のだ、と言った。  だが、どうやったらそれが出来るのか、何故それをハウルはしようとしないのか、それについて は一言も話してはくれなかったのは何故なのだろうか。  とても辛そうな笑みを見せたかと思ったら、そのまま少し出かけて来る、と言い残して部屋を去 り、それきり朝まで戻らずにいたハウルに、ソフィーは理由を問い質すチャンスを逸して今日まで 来てしまったけれど。  治せる、けれど治せない。  そこにはきっと、何かソフィ−の知らない魔法の約束事があるのに違いない。  そしてハウルが苦しんでいるのもまた、そのせいなのだろう。 「勇気を出さなきゃね、ソフィー」  いつかのいようにそう呟いて、ソフィーはガタ、と椅子を後ろに引き立ち上がった。  考えても分からないことならば、あとは訊ねるしかない。  それが相手を傷つけることなら好奇心だけで行動するのは間違いだろうが、これは好奇心ではな いし、それに放っておいていいものではないとソフィーには思えたのだ。  ハウルが悩んでいるのなら、自分もその悩みを少しでもいいから話して欲しいと思う。  例え答えは見つけられなくても、一緒により良い方向へと続く道を探して行きたいと思うから。  ゆっくりと、ソフィーは階段を上がる。  いつもよりもゆっくり、自分の心を確かめるように。  そして辿り着いた自分たちの部屋の扉の前で、一度だけ深呼吸をして。  コンコン、と軽くノックをし、そして応えを待つことなくソフィーはノブに手をかけてそれを回 した。  それはカチリ、と時計の針が日付が変わったことを教える音だけが、城の中に響いた瞬間だった。  

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2005年4月1日作成。そして、未完となっています。
この先、おそらく後二話か三話で終わるはずだったんですけれども、
気力が尽きたらしく………放置したまま今に至っております。

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